場所柄の、さびれさ加減思うべしで、建廻した茶屋|休息所《やすみどころ》、その節は、ビール聞し召せ枝豆も候だのが、ただ葦簀《よしず》の屋根と柱のみ、破《やぶれ》の見える床の上へ、二ひら三ひら、申訳だけの緋《ひ》の毛布《けっと》を敷いてある。その掛茶屋は、松と薄《すすき》で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀《みぎわ》になっていて、緋鯉《ひごい》の影、真鯉の姿も小波《さざなみ》の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋|辷《すべ》るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留《とど》めて憩ったのであるが、眩《まばゆ》いばかり西日が射《さ》すので、頭痛持なれば眉を顰《ひそ》め、水底《みなそこ》へ深く入った鯉とともにその毛布《けっと》の席《むしろ》を去って、間《あい》に土間一ツ隔てたそれなる母屋の中二階に引越したのであった。
 中二階といってもただ段の数二ツ、一段低い処にお幾という婆さんが、塩|煎餅《せんべい》の壺《つぼ》と、駄菓子の箱と熟柿《じゅくし》の笊《ざる》を横に控え、角火鉢の大《おおき》いのに、真鍮《しんちゅう》の薬罐《やかん》から湯気を立たせたのを前に置き、煤《すす》けた棚の上に古ぼけた麦酒《ビール》の瓶、心太《ところてん》の皿などを乱雑に並べたのを背後《うしろ》に背負い、柱に安煙草《やすたばこ》のびらを張り、天井に捨団扇《すてうちわ》をさして、ここまでさし入る日あたりに、眼鏡を掛けて継物をしている。外に姉さんも何《なんに》も居ない、盛《さかり》の頃は本家から、女中料理人を引率して新宿|停車場《ステエション》前の池田屋という飲食店が夫婦づれ乗込むので、独身《ひとりみ》の便《たより》ないお幾婆さんは、その縁続きのものとか、留守番を兼ねて後生のほどを行い澄《すま》すという趣。
 判事に浮世ばなしを促されたのを機《しお》にお幾はふと針の手を留めたが、返事より前《さき》に逸疾《いちはや》くその眼鏡を外した、進んで何か言いたいことでもあったと見える、別の吸子《きゅうす》に沸《たぎ》った湯をさして、盆に乗せるとそれを持って、前垂《まえだれ》の糸屑《いとくず》を払いさま、静《しずか》に壇を上って、客の前に跪《ひざまず》いて、
「お茶を入替えて参りました、召上りまし。」といいながら膝《ひざ》近く躙《にじ》り寄って差置いた。
 判事は欄干について頬を支えていた手を膝に取って、
「おお、それは難有《ありがと》う。」
 と婆《ばば》の目には、もの珍しく見ゆるまで、かかる紳士の優しい容子《ようす》を心ありげに瞻《みまも》ったが、
「時に旦那様。」
「むむ、」
「まあ可哀そうだと思召《おぼしめ》しまし、この間お休み遊ばしました時、ちょっと参りましたあの女でございますが、御串戯《ごじょうだん》ではございましょうが、旦那様も佳《い》い女だな、とおっしゃって下さいましたあのことでございますがね、」
 と言いかけてちょっと猶予《ためら》って、聞く人の顔の色を窺《うかが》ったのは、こういって客がこのことについて注意をするや否やを見ようとしたので。心にもかけないほどの者ならば話し出して退屈をさせるにも及ばぬことと、年寄だけに気が届いたので、案のごとく判事は聴く耳を立てたのである。
「おお、どうかしたか、本当に容子《ようす》の佳い女《こ》だよ。」
「はい、容子の可《い》い女《こ》で。旦那様は都でいらっしゃいます、別にお目にも留りますまいが、私《わたくし》どもの目からはまるでもう弁天様か小町かと見えますほどです。それに深切で優しいおとなしい女《こ》でございまして、あれで一枚着飾らせますれば、上《うえ》つ方《がた》のお姫様と申しても宜《い》い位。」

       三

「ほほほ、賞《ほ》めまするに税は立たず、これは柳橋も新橋も御存じでいらっしゃいましょう、旦那様のお前で出まかせなことを失礼な。」
 小山判事は苦笑をして、
「串戯《じょうだん》をいっては不可《いか》ん、私は学生だよ。」
「あら、あんなことをおっしゃって、貴方《あなた》は何ぞの先生様でいらっしゃいますよ。」
「まあその娘がどうしたというのだ。」と小山は胡坐《あぐら》をどっかりと組直した。
 落着いて聞いてくれそうな様子を見て取り、婆さんは嬉しそうに、
「何にいたせ、ちっとでもお心に留っておりますなら可哀そうだと思ってやって下さいまし。こうやってお傍《そば》でお話をいたしますのは今日がはじめて。私《わたくし》どもへお休み下さいましたのはたった二度なんでございますけれども、他《ほか》に誰も居《お》りませず、ちょうどあの娘《こ》が来合せました時でよくお顔を存じておりますし、それにこう申してはいかがでございますが、旦那様もあの娘《こ》を覚えていらっしゃいますように存じます。
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