外散策、足固めかたがた新宿から歩行《ある》いて、十二社あたりまで行こうという途中、この新開に住んでいる給水工場の重役人に知合があって立寄ったのであった。
 これから、名を由之助《よしのすけ》という小山判事は、埃《ほこり》も立たない秋の空は水のように澄渡って、あちらこちら蕎麦の茎の西日の色、真赤《まっか》な蕃椒《とうがらし》が一団々々ある中へ、口にしたその葉巻の紫の煙を軽く吹き乱しながら、田圃道《たんぼみち》を楽しそう。
 その胸の中《うち》もまた察すべきものである。小山はもとより医者が厭《いや》だから文学を、文学も妙でない、法律を、政治をといった側の少年ではなかった。
 されば法官がその望《のぞみ》で、就中《なかんずく》希《こいねが》った判事に志を得て、新たに、はじめて、その方は……と神聖にして犯すべからざる天下控訴院の椅子にかかろうとする二三日。
 足の運びにつれて目に映じて心に往来《ゆきき》するものは、土橋でなく、流《ながれ》でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍《みちばた》の藪《やぶ》でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南《ひなた》でなく、土の凸凹《でこぼこ》でもなく、かえって法廷を進退する公事《くじ》訴訟人の風采《ふうさい》、俤《おもかげ》、伏目《ふしめ》に我を仰ぎ見る囚人の顔、弁護士の額、原告の鼻、検事の髯《ひげ》、押丁《おうてい》等の服装、傍聴席の光線の工合《ぐあい》などが、目を遮り、胸を蔽《おお》うて、年少判事はこの大《おおい》なる責任のために、手も自由ならず、足の運びも重いばかり、光った靴の爪尖《つまさき》と、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視《みつ》めながら、一歩進み二歩|行《ゆ》く内、にわかに颯《さっ》と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭《こかげ》なる崖《がけ》の腹から二頭の竜の、二条の氷柱を吐く末が百筋《ももすじ》に乱れて、どッと池へ灌《そそ》ぐのは、熊野の野社《のやしろ》の千歳経《ちとせふ》る杉の林を頂いた、十二社の滝の下路《したみち》である。

       二

「何か変ったこともないか。」と滝に臨んだ中二階の小座敷、欄干に凭《もた》れながら判事は徒然《つれづれ》に茶店の婆さんに話しかける。
 十二社あたりへ客の寄るのは、夏も極暑の節|一盛《ひとさかり》で、やがて初冬にもなれば、上の社《やしろ》の森の中で狐が鳴こうという
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