何某と何某と、施主ありて手曳の針鉄ひきわたしこれあり、縋るとて、扇子の竹触れて、りん/\と鈴虫の微妙なるしらべ聞え候。
 あはれ、妙音海潮音の海の色もこゝに澄み、ふりあふぐ山懐に、一叢しげれるみどりの草の、蛍の光も宿すべく、濡色見えて暗きなかに、山の端分くる月かとばかり、大輪の百合唯一つ真白きが、はつと揺らぎて薫りしは、此の寂さに拍手の、峰にや響き候ひけん。
 御堂の院の扉をすく、御俤もよそならず。雲か、あらず。煙か、あらず。美しき緑と紅と黄と白と紫と、五色の絹糸、朱塗の柱に堆き、天井の絵の花の中を、細くたなびき候は、御手の糸と称ふるよし、御像の御袖にかけましくも綾にかしこく候ひき。

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具一切功徳  慈眼視衆生
福寿海無量  是故応頂礼
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 かくて、霧たたば、月ささば、とおのづから衣紋の直され候。
 時に松吹く風ばかり、方丈に人もあらず、狭筵の片隅に、梅花心易のさし置かれ候を、愚弟のそぞろ手に取りて、開き見んといたし候まゝ、よしなく的《あて》のない美人の名を占はんより、裏の山へ行つて百合を折らうと、夏草をわけ、香をたづねて、時の間に十本
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