の絵を見て、こりゃ出来が可《い》い、などと言い兼ねません。
 貴下方《あなたがた》が、到底|対手《あいて》にゃなるまいと思っておいでなさる、少《わか》い人たちが、かえって祖師《そし》に憧《あこ》がれてます。どうかして、安心立命《あんしんりつめい》が得たいと悶《もだ》えてますよ。中にはそれがために気が違うものもあり、自殺するものさえあるじゃありませんか。
 何でも構わない。途中で、ははあ、これが二十世紀の人間だな、と思うのを御覧なすったら、男子《おとこ》でも女子《おんな》でもですね、唐突《だしぬけ》に南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と声をかけてお試しなさい。すぐに気絶するものがあるかも知れず、たちどころに天窓《あたま》を剃《そっ》て御弟子になりたいと言おうも知れず、ハタと手を拍《う》って悟るのもありましょう。あるいはそれが基《もと》で死にたくなるものもあるかも知れません。
 実際、串戯《じょうだん》ではない。そのくらいなんですもの。仏教はこれから法燈《ほうとう》の輝く時です。それだのに、何故《なぜ》か、貴下《あんた》がたが因循《いんじゅん》して引込思案《ひっこみじあん》でいらっしゃる。」
 頻《しきり》に耳を傾けたが、
「さよう、如何《いか》にも、はあ、さよう。いや、私《わたくし》どもとても、堅く申せば思想界は大維新《だいいしん》の際《さい》で、中には神を見た、まのあたり仏《ぶつ》に接した、あるいは自《みず》から救世主であるなどと言う、当時の熊本の神風連《じんぷうれん》の如き、一揆《いっき》の起りましたような事も、ちらほら聞伝《ききつた》えてはおりますが、いずれに致せ、高尚な御議論、御研究の方《ほう》でござって、こちとらづれ出家がお守《も》りをする、偶像なぞは……その、」
 と言いかけて、密《そっ》と御廚子《みずし》の方《かた》を見た。
「作《さく》がよければ、美術品、彫刻物《ちょうこくもの》として御覧なさろうと言う世間。
 あるいは今後、仏教は盛《さかん》になろうも知れませんが、ともかく、偶像の方となりますると……その如何《いかが》なものでござろうかと……同一《おなじ》信仰にいたしてからが、御本尊《ごほんぞん》に対し、礼拝《らいはい》と申す方《かた》は、この前《さき》どうあろうかと存じまする。ははは、そこでございますから、自然、貴下《あたた》[#ルビの「あたた」はママ
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