貴女《あなた》は?」
「私は心持が悪いんでございます、丁《ちょう》ど貴下《あなた》のお姿を拝みました時のように、」
 と言いかけて吻《ほ》と小さなといき、人質のかの杖《ステッキ》を、斜めに両手で膝へ取った。情《なさけ》の海に棹《さおさ》す姿。思わず腕組をして熟《じっ》と見る。

       三十

「この春の日の日中《ひなか》の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂《さび》しいことは。やっぱり、夢に賑《にぎや》かな処《ところ》を見るようではござんすまいか。二歳《ふたつ》か三歳《みッつ》ぐらいの時に、乳母《うば》の背中から見ました、祭礼《おまつり》の町のようにも思われます。
 何為《なぜ》か、秋の暮より今、この方《ほう》が心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞《しぼ》り出されるようですわ。苦しくもなく、切《せつ》なくもなく、血を絞られるようですわ。柔《やわら》かな木の葉の尖《さき》で、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、肌《はだ》が蕩《とろ》けるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて行《ゆ》きそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って嬉《うれ》しいんでもありません。
 あの貴下《あなた》、叱《しか》られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂《さび》しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。
 ああ遣《や》って、田圃《たんぼ》にちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合《はりあい》を持っているんでしょう。見た処《ところ》でも、しょんぼりした脚《あし》にも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり魂《たましい》を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々《ちょうちょう》にでもなりそうですね。心細いようですね。
 暖《あたたか》い、優《やさ》しい、柔《やわら》かな、すなおな風にさそわれて、鼓草《たんぽぽ》の花が、ふっと、綿《わた》になって消えるように魂《たましい》がなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ確《たしか》に目に見えて、そして死んで行《ゆ》くと同一《おなじ》心持《こころもち》なんでしょう。
 楽しいと知りつつも、情《なさけ》ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。
 そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。
 私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも痒《かゆ》くもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑《のどか》で、麗《うららか》で、美しくって、それでいて寂《さび》しくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原《すなはら》のようで、前生《ぜんせ》の事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、焦《じれ》ッたくって、口惜《くやし》くッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり地《じ》の底へ引込《ひきこ》まれると申しますより、空へ抱《だ》き上げられる塩梅《あんばい》の、何んとも言えない心持《こころもち》がして、それで寝ましたんですが、貴下《あなた》、」
 小雨《こさめ》が晴れて日の照るよう、忽《たちま》ち麗《うららか》なおももちして、
「こう申してもやっぱりお気に障《さわ》りますか。貴下《あなた》のお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下《あなた》どうなさいましたの。」
 身動《みじろ》ぎもせず聞き澄《す》んだ散策子の茫然《ぼんやり》とした目の前へ、紅白粉《べにおしろい》の烈しい流《ながれ》が眩《まばゆ》い日の光で渦《うずま》いて、くるくると廻っていた。
「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」
 と掌《てのひら》で目を払って、
「で、そこでお休みになって、」
「はあ、」
「夢でも御覧になりましたか。」
 思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突《だしぬけ》と心付《こころづ》いて、
「そういうお心持《こころもち》でうたた寐《ね》でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」
「やっぱり、貴下《あなた》のお姿を見ますわ。」
「ええ、」
「此処《ここ》にこうやっておりますような。ほほほほ。」
 と言い知らずあでやかなものである。
「いや、串戯《じょうだん》はよして、その貴女《あなた》、恋しい、慕《した》わしい、そしてどうしても、もう逢《あ》えない、と
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