》は佐渡《さど》と云《い》ふ所《ところ》は、上野《うへの》から碓氷《うすひ》を越《こ》えて、雪《ゆき》の柏原《かしはばら》、關山《せきやま》、直江津《なほえつ》まはりに新潟邊《にひがたへん》から、佐渡《さど》は四十五里《しじふごり》波《なみ》の上《うへ》、と見《み》るか、聞《き》きかするものだ、と浮《うつか》りして居《ゐ》た。七日前《なぬかぜん》に東京驛《とうきやうえき》から箱根越《はこねごし》の東海道《とうかいだう》。――分《わか》つた/\――逗留《とうりう》した大阪《おほさか》を、今日《けふ》午頃《ひるごろ》に立《た》つて、あゝ、祖母《おばあ》さんの懷《ふところ》で昔話《むかしばなし》に聞《き》いた、栗《くり》がもの言《い》ふ、たんばの國《くに》。故《わざ》と下《お》りて見《み》た篠山《さゝやま》の驛《えき》のプラツトホームを歩行《ある》くのさへ、重疊《ちようでふ》と連《つらな》る山《やま》を見《み》れば、熊《くま》の背《せ》に立《た》つ思《おもひ》がした。酒顛童子《しゆてんどうじ》の大江山《おほえやま》。百人一首《ひやくにんいつしゆ》のお孃《ぢやう》さんの、「いくのの道《みち》」もそれか、と辿《たど》つて、はる/″\と來《き》た城崎《きのさき》で、佐渡《さど》の沖《おき》へ船《ふね》が飛《と》んで、キラリと飛魚《とびうを》が刎出《はねだ》したから、きたなくも怯《おびや》かされたのである。――晩《ばん》もお總菜《さうざい》に鮭《さけ》を退治《たいぢ》た、北海道《ほくかいだう》の産《さん》である。茶《ちや》うけに岡山《をかやま》のきび團子《だんご》を食《た》べた處《ところ》で、咽喉《のど》に詰《つま》らせる法《はふ》はない。これしかしながら旅《たび》の心《こゝろ》であらう。――

 夜《よ》はやゝ更《ふ》けた。はなれの十疊《じふでふ》の奧座敷《おくざしき》は、圓山川《まるやまがは》の洲《す》の一處《ひとところ》を借《か》りたほど、森閑《しんかん》ともの寂《さび》しい。あの大川《おほかは》は、いく野《の》の銀山《ぎんざん》を源《みなもと》に、八千八谷《はつせんやたに》を練《ね》りに練《ね》つて流《なが》れるので、水《みづ》は類《たぐひ》なく柔《やはら》かに滑《なめらか》だ、と又《また》按摩《あんま》どのが今度《こんど》は聲《こゑ》を沈《しづ》めて話《はな》した。豐岡《とよをか》から來《く》る間《あひだ》、夕雲《ゆふぐも》の低迷《ていめい》して小浪《さゝなみ》に浮織《うきおり》の紋《もん》を敷《し》いた、漫々《まん/\》たる練絹《ねりぎぬ》に、汽車《きしや》の窓《まど》から手《て》をのばせば、蘆《あし》の葉越《はごし》に、觸《さは》ると搖《ゆ》れさうな思《おもひ》で通《とほ》つた。旅《たび》は樂《たのし》い、又《また》寂《さび》しい、としをらしく成《な》ると、何《なに》が、そんな事《こと》。……ぢきその飛石《とびいし》を渡《わた》つた小流《こながれ》から、お前《まへ》さん、苫船《とまぶね》、屋根船《やねぶね》に炬燵《こたつ》を入《い》れて、美《うつく》しいのと差向《さしむか》ひで、湯豆府《ゆどうふ》で飮《の》みながら、唄《うた》で漕《こ》いで、あの川裾《かはすそ》から、玄武洞《げんぶどう》、對居山《つゐやま》まで、雪見《ゆきみ》と云《い》ふ洒落《しやれ》さへあります、と言《い》ふ。項《うなじ》を立《た》てた苫《とま》も舷《ふなばた》も白銀《しろがね》に、珊瑚《さんご》の袖《そで》の搖《ゆ》るゝ時《とき》、船《ふね》はたゞ雪《ゆき》を被《かつ》いだ翡翠《ひすゐ》となつて、白《しろ》い湖《みづうみ》の上《うへ》を飛《と》ぶであらう。氷柱《つらゝ》の蘆《あし》も水晶《すゐしやう》に――
    金子《かね》の力《ちから》は素晴《すば》らしい。
    私《わたし》は獺《かはうそ》のやうに、ごろんと寢《ね》た。
    而《さう》して夢《ゆめ》に小式部《こしきぶ》を見《み》た。
    嘘《うそ》を吐《つ》け!
 ピイロロロピイ――これは夜《よ》が明《あ》けて、晴天《せいてん》に鳶《とび》の鳴《な》いた聲《こゑ》ではない。翌朝《よくてう》、一風呂《ひとふろ》キヤ/\と浴《あ》び、手拭《てぬぐひ》を絞《しぼ》つたまゝ、からりと晴《は》れた天氣《てんき》の好《よ》さに、川《かは》の岸《きし》を坦々《たん/\》とさかのぼつて、來日《くるひ》ヶ峰《みね》の方《かた》に旭《ひ》に向《むか》つて、晴々《はれ/″\》しく漫歩《ぶらつ》き出《だ》した。九時頃《くじごろ》だが、商店《しやうてん》は町《まち》の左右《さいう》に客《きやく》を待《ま》つのに、人通《ひとどほ》りは見掛《みか》けない。靜《しづか》な細《ほそ》い町《まち》を、四五間《しごけん》ほど前《まへ》へ立《た》つて、小兒《こども》かと思《おも》ふ小《ちひ》さな按摩《あんま》どのが一人《ひとり》、笛《ふえ》を吹《ふ》きながら後形《うしろむき》で行《ゆ》くのである。ピイロロロロピイーとしよんぼりと行《ゆ》く。トトトン、トトトン、と間《ま》を緩《ゆる》く、其處等《そこら》の藝妓屋《げいしやや》で、朝稽古《あさげいこ》の太鼓《たいこ》の音《おと》、ともに何《なん》となく翠《みどり》の滴《したゝ》る山《やま》に響《ひゞ》く。
 まだ羽織《はおり》も着《き》ない。手織縞《ておりじま》の茶《ちや》つぽい袷《あはせ》の袖《そで》に、鍵裂《かぎざき》が出來《でき》てぶら下《さが》つたのを、腕《うで》に捲《ま》くやうにして笛《ふえ》を握《にぎ》つて、片手《かたて》向《むか》うづきに杖《つゑ》を突張《つツぱ》つた、小倉《こくら》の櫂《かひ》の口《くち》が、ぐたりと下《さが》つて、裾《すそ》のよぢれ上《あが》つた痩脚《やせずね》に、ぺたんことも曲《ゆが》んだとも、大《おほ》きな下駄《げた》を引摺《ひきず》つて、前屈《まへかゞ》みに俯向《うつむ》いた、瓢箪《へうたん》を俯向《うつむき》に、突《つ》き出《で》た出額《おでこ》の尻《しり》すぼけ、情《なさけ》を知《し》らず故《ことさ》らに繪《ゑ》に描《か》いたやうなのが、ピイロロロピイと仰向《あふむ》いて吹《ふ》いて、すぐ、ぐつたりと又《また》俯向《うつむ》く。鍵《かぎ》なりに町《まち》を曲《まが》つて、水《みづ》の音《おと》のやゝ聞《き》こえる、流《ながれ》の早《はや》い橋《はし》を越《こ》すと、又《また》道《みち》が折《を》れた。突當《つきあた》りがもうすぐ山懷《やまふところ》に成《な》る。其處《そこ》の町屋《まちや》を、馬《うま》の沓形《くつがた》に一廻《ひとまは》りして、振返《ふりかへ》つた顏《かほ》を見《み》ると、額《ひたひ》に隱《かく》れて目《め》の窪《くぼ》んだ、頤《あご》のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな年《とし》であつた。
 うか/\と、あとを歩行《ある》いた方《はう》は勝手《かつて》だが、彼《かれ》は勝手《かつて》を超越《てうゑつ》した朝飯前《あさめしまへ》であらうも知《し》れない。笛《ふえ》の音《ね》が胸《むね》に響《ひゞ》く。
 私《わたし》は欄干《らんかん》に彳《たゝず》んで、返《かへ》りを行違《ゆきちが》はせて見送《みおく》つた。おなじやうに、或《あるひ》は傾《かたむ》き、また俯向《うつむ》き、さて笛《ふえ》を仰《あふ》いで吹《ふ》いた、が、やがて、來《き》た道《みち》を半《なか》ば、あとへ引返《ひきかへ》した處《ところ》で、更《あらた》めて乘《の》つかる如《ごと》く下駄《げた》を留《とゞ》めると、一方《いつぱう》、鎭守《ちんじゆ》の社《やしろ》の前《まへ》で、ついた杖《つゑ》を、丁《ちやう》と小脇《こわき》に引《ひき》そばめて上《あ》げつゝ、高々《たか/″\》と仰向《あふむ》いた、さみしい大《おほき》な頭《あたま》ばかり、屋根《やね》を覗《のぞ》く來日《くるひ》ヶ峰《みね》の一處《ひとところ》を黒《くろ》く抽《ぬ》いて、影法師《かげぼふし》を前《まへ》に落《おと》して、高《たか》らかに笛《ふえ》を鳴《な》らした。
 ――きよきよらツ、きよツ/\きよツ!
 八千八谷《はつせんやたに》を流《なが》るゝ、圓山川《まるやまがは》とともに、八千八聲《はつせんやこゑ》と稱《とな》ふる杜鵑《ほとゝぎす》は、ともに此地《このち》の名物《めいぶつ》である。それも昨夜《さくや》の按摩《あんま》が話《はな》した。其時《そのとき》、口《くち》で眞似《まね》たのが此《これ》である。例《れい》の(ほぞんかけたか)を此《こ》の邊《へん》では、(きよきよらツ、きよツ/\)と聞《き》くらしい。
 ひと聲《こゑ》、血《ち》に泣《な》く其《そ》の笛《ふえ》を吹《ふ》き落《おと》すと、按摩《あんま》は、とぼ/\と横路地《よころぢ》へ入《はひ》つて消《き》えた。
 續《つゞ》いて其處《そこ》を通《とほ》つたが、もう見《み》えない。
 私《わたし》は何故《なぜ》か、ぞつとした。
 太鼓《たいこ》の音《おと》の、のびやかなあたりを、早足《はやあし》に急《いそ》いで歸《かへ》るのに、途中《とちう》で橋《はし》を渡《わた》つて岸《きし》が違《ちが》つて、石垣《いしがき》つゞきの高塀《たかべい》について、打《ぶ》つかりさうに大《おほき》な黒《くろ》い門《もん》を見《み》た。立派《りつぱ》な門《もん》に不思議《ふしぎ》はないが、くゞり戸《ど》も煽《あふ》つたまゝ、扉《とびら》が夥多《おびたゞ》しく裂《さ》けて居《ゐ》る。覗《のぞ》くと、山《やま》の根《ね》を境《さかひ》にした廣々《ひろ/″\》とした庭《には》らしいのが、一面《いちめん》の雜草《ざつさう》で、遠《とほ》くに小《ちひ》さく、壞《こは》れた四阿《あづまや》らしいものの屋根《やね》が見《み》える。日《ひ》に水《みづ》の影《かげ》もさゝぬのに、其《そ》の四阿《あづまや》をさがりに、二三輪《にさんりん》、眞紫《まむらさき》の菖蒲《あやめ》が大《おほき》くぱつと咲《さ》いて、縋《すが》つたやうに、倒《たふ》れかゝつた竹《たけ》の棹《さを》も、池《いけ》に小船《こぶね》に棹《さをさ》したやうに面影《おもかげ》に立《た》つたのである。
 此《こ》の時《とき》の旅《たび》に、色彩《いろ》を刻《きざ》んで忘《わす》れないのは、武庫川《むこがは》を過《す》ぎた生瀬《なませ》の停車場《ていしやぢやう》近《ちか》く、向《むか》う上《あが》りの徑《こみち》に、じり/\と蕊《しん》に香《にほひ》を立《た》てて咲揃《さきそろ》つた眞晝《まひる》の芍藥《しやくやく》と、横雲《よこぐも》を眞黒《まつくろ》に、嶺《みね》が颯《さつ》と暗《くら》かつた、夜久野《やくの》の山《やま》の薄墨《うすずみ》の窓《まど》近《ちか》く、草《くさ》に咲《さ》いた姫薊《ひめあざみ》の紅《くれなゐ》と、――此《こ》の菖蒲《しやうぶ》の紫《むらさき》であつた。
 ながめて居《ゐ》る目《め》が、やがて心《こゝろ》まで、うつろに成《な》つて、あツと思《おも》ふ、つい目《め》さきに、又《また》うつくしいものを見《み》た。丁《ちやう》ど瞳《ひとみ》を離《はな》して、あとへ一歩《ひとあし》振向《ふりむ》いた處《ところ》が、川《かは》の瀬《せ》の曲角《まがりかど》で、やゝ高《たか》い向岸《むかうぎし》の、崖《がけ》の家《うち》の裏口《うらぐち》から、巖《いは》を削《けづ》れる状《さま》の石段《いしだん》五六段《ごろくだん》を下《お》りた汀《みぎは》に、洗濯《せんたく》ものをして居《ゐ》た娘《むすめ》が、恰《あたか》もほつれ毛《げ》を掻《か》くとて、すんなりと上《あ》げた眞白《まつしろ》な腕《うで》の空《そら》ざまなのが睫毛《まつげ》を掠《かす》めたのである。
 ぐらり、がたがたん。
「あぶない。」
「いや、これは。」
 すんでの處《ところ》。――落《お》つこちるのでも、身投《みなげ》でも、はつと抱《だ》きとめる救手《すくひて》は、何《なん》でも不意《ふい》に出《で》る方《はう》が人氣
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