せわ》をしながら笑《わら》つたが、何《なに》を祕《かく》さう、唯今《たゞいま》の雲行《くもゆき》に、雷鳴《らいめい》をともなひはしなからうかと、氣遣《きづか》つた處《ところ》だから、土地《とち》ツ子《こ》の天氣豫報《てんきよはう》の、風《かぜ》、晴《はれ》、に感謝《かんしや》の意《い》を表《へう》したのであつた。
 すぐ女中《ぢよちう》の案内《あんない》で、大《おほき》く宿《やど》の名《な》を記《しる》した番傘《ばんがさ》を、前後《あとさき》に揃《そろ》へて庭下駄《にはげた》で外湯《そとゆ》に行《ゆ》く。此《こ》の景勝《けいしよう》愉樂《ゆらく》の郷《きやう》にして、内湯《うちゆ》のないのを遺憾《ゐかん》とす、と云《い》ふ、贅澤《ぜいたく》なのもあるけれども、何《なに》、青天井《あをてんじやう》、いや、滴《したゝ》る青葉《あをば》の雫《しづく》の中《なか》なる廊下《らうか》續《つゞ》きだと思《おも》へば、渡《わた》つて通《とほ》る橋《はし》にも、川《かは》にも、細々《こま/″\》とからくりがなく洒張《さつぱ》りして一層《いつそう》好《い》い。本雨《ほんあめ》だ。第一《だいいち》、馴《な》れた家《いへ》の中《なか》を行《ゆ》くやうな、傘《かさ》さした女中《ぢよちう》の斜《なゝめ》な袖《そで》も、振事《ふりごと》のやうで姿《すがた》がいゝ。
 ――湯《ゆ》はきび/\と熱《あつ》かつた。立《た》つと首《くび》ツたけある。誰《たれ》の?……知《し》れた事《こと》拙者《せつしや》のである。處《ところ》で、此《こ》のくらゐ熱《あつ》い奴《やつ》を、と顏《かほ》をざぶ/\と冷水《れいすゐ》で洗《あら》ひながら腹《はら》の中《なか》で加減《かげん》して、やがて、湯《ゆ》を出《で》る、ともう雨《あめ》は霽《あが》つた。持《もち》おもりのする番傘《ばんがさ》に、片手腕《かたてうで》まくりがしたいほど、身《み》のほてりに夜風《よかぜ》の冷《つめた》い快《こゝろよ》さは、横町《よこちやう》の錢湯《せんたう》から我家《わがや》へ歸《かへ》る趣《おもむき》がある。但《たゞ》往交《ゆきか》ふ人々《ひと/″\》は、皆《みな》名所繪《めいしよゑ》の風情《ふぜい》があつて、中《なか》には塒《ねぐら》に立迷《たちまよ》ふ旅商人《たびあきうど》の状《さま》も見《み》えた。
 並《なら》んだ膳《ぜん》は、土地《とち》の由緒《ゆゐしよ》と、奧行《おくゆき》をもの語《がた》る。手《て》を突張《つツぱ》ると外《はづ》れさうな棚《たな》から飛出《とびだ》した道具《だうぐ》でない。藏《くら》から顯《あら》はれた器《うつは》らしい。御馳走《ごちそう》は――
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鯛《たひ》の味噌汁《みそしる》。人參《にんじん》、じやが、青豆《あをまめ》、鳥《とり》の椀《わん》。鯛《たひ》の差味《さしみ》。胡瓜《きうり》と烏賊《いか》の酢《す》のもの。鳥《とり》の蒸燒《むしやき》。松蕈《まつたけ》と鯛《たひ》の土瓶蒸《どびんむし》。香《かう》のもの。青菜《あをな》の鹽漬《しほづけ》、菓子《くわし》、苺《いちご》。
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 所謂《いはゆる》、貧僧《ひんそう》のかさね齋《どき》で、ついでに翌朝《よくてう》の分《ぶん》を記《しる》して置《お》く。
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蜆《しゞみ》、白味噌汁《しろみそしる》。大蛤《おほはまぐり》、味醂蒸《みりんむし》。並《ならび》に茶碗蒸《ちやわんむし》。蕗《ふき》、椎茸《しひたけ》つけあはせ、蒲鉾《かまぼこ》、鉢《はち》。淺草海苔《あさくさのり》。
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 大《おほき》な蛤《はまぐり》、十《と》ウばかり。(註《ちう》、ほんたうは三個《さんこ》)として、蜆《しゞみ》も見事《みごと》だ、碗《わん》も皿《さら》もうまい/\、と慌《あわ》てて瀬戸《せと》ものを噛《かじ》つたやうに、覺《おぼ》えがきに記《しる》してある。覺《おぼ》え方《かた》はいけ粗雜《ぞんざい》だが、料理《れうり》はいづれも念入《ねんい》りで、分量《ぶんりやう》も鷹揚《おうやう》で、聊《いさゝか》もあたじけなくない處《ところ》が嬉《うれ》しい。
 三味線《さみせん》太鼓《たいこ》は、よその二階三階《にかいさんがい》の遠音《とほね》に聞《き》いて、私《わたし》は、ひつそりと按摩《あんま》と話《はな》した。此《こ》の按摩《あんま》どのは、團栗《どんぐり》の如《ごと》く尖《とが》つた頭《あたま》で、黒目金《くろめがね》を掛《か》けて、白《しろ》の筒袖《つゝそで》の上被《うはつぱり》で、革鞄《かはかばん》を提《さ》げて、そくに立《た》つて、「お療治《れうぢ》。」と顯《あら》はれた。――勝手《かつて》が違《ちが》つて、私《わたし》は一寸《ちよつと》不平《ふへい
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