安値《やす》いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙《すき》がない。女が手を離すのと、笊を引手繰《ひったく》るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行《ゆ》く。
 私は腕組をしてそこを離れた。
 以前、私たちが、草鞋《わらじ》に手鎌、腰兵粮《こしびょうろう》というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験《ためし》は余りない。
 たった三銭――気の毒らしい。
「御免なして。」 
 と背後《うしろ》から、跫音《あしおと》を立てず静《しずか》に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路《かたみち》の山の根を摺違《すれちが》い、慎ましやかに前へ通る、すり切《きれ》草履に踵《かかと》の霜。
「ああ、姉さん。」
 私はうっかりと声を掛けた。

       三

「――旦那さん、その虫は構うた事には叶《かな》いませんわ。――煩《うるそ》うてな……」
 もの言《いい》もやや打解けて、おくれ毛を撫《な》でながら、
「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」
「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」
「東京には居《お》りませんの。」
「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙《けむ》のようだね。……またここにも一団《ひとかたまり》になっている。何と言う虫だろう。」
「太郎虫と言いますか、米搗虫《こめつきむし》と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児《こ》が、この虫を見ますとな、旦那さん……」
 と、言《ことば》が途絶えた。
「小さな児が、この虫を見ると?……」
「あの……」
「どうするんです。」
「唄をうとうて囃《はや》しますの。」
「何と言って……その唄は?」
「極《きまり》が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合《うすくれあい》には、よけい沢山《たんと》飛びますの。」
 ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。
「仲よくしましょう、さからわないで。」
 私はちょっかいを出すように、面《おもて》を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺《さいみょうじ》どののような形を、更《あらた》めて静《しずか》に歩行《ある》いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套《がいとう》は、その女が持ってくれた。――歩行《ある》きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
 しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬《なぞら》えて、潜《ひそか》に思い上った沙汰《さた》なのであった。

 湖を遥《はるか》に、一廓《ひとくるわ》、彩色した竜の鱗《うろこ》のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍《いらか》を中に隔てて、いまは鉄鎚《てっつい》の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲《す》の端《はた》に、ぽッつりと、烏帽子《えぼし》の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋《とまや》は、さながらその素袍《すおう》の袖である。
 ――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈《きのこ》に敷いた葉を残した笊《ざる》を片手に、行《ゆ》く姿に、ふとその手鍋《てなべ》提げた下界の天女の俤《おもかげ》を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈《きのこ》を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値《あたい》でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手《あいて》が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被《おっかぶ》せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極《きまり》が悪くもあったらしい口振《くちぶり》で。……「失礼だが、世帯の足《たし》になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様《いなりさま》のお賽銭《さいせん》に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目《しまめ》の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋《ばちぶくろ》とも見えず挟《はさま》って、腰帯ばかりが紅《べに》であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束《おぼつか》ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩《たけがり》が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
 はかない恋の思出がある。

 もう疾《とく》に、余所《よそ》の歴《れっ》きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅《きら》は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙《ござ》に毛氈《もうせん》を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢《えりあか》のついた見すぼらしい、母のない児《こ》の手を、娘さん――そのひとは、厭《いと》わしげもなく、親しく曳《ひ》いて坂を上ったのである。衣《きぬ》の香に包まれて、藤紫の雲の裡《うち》に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿《たど》った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈《きのこ》を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥《はるか》に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵《まきえ》の重に片袖を掛けて、ほっと憩《やす》らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘《かく》そう。その人のいま居る背後《うしろ》に、一本《ひともと》の松は、我がなき母の塚であった。
 向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天《がってん》の御堂《みどう》があった。――幼い私は、人界の茸《きのこ》を忘れて、草がくれに、偏《ひとえ》に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
 弁当に集《あつま》った。吸筒《すいづつ》の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引《ひッ》つかんで声を堪《こら》えた、茨《いばら》の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄《うっちゃ》っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍《そば》の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛《か》んだ。草には露、目には涙、縋《すが》る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅《くれない》の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透《とお》った空もやや翳《かげ》る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月《じつげつ》を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪《たま》らず蟋蟀《こおろぎ》のように飛出すと、するすると絹の音、颯《さっ》と留南奇《とめき》の香で、もの静《しずか》なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝《つ》と白足袋で氈《かも》を辷《すべ》って肩を抱いて、「まあ、可《よ》かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
 やがて、世の状《さま》とて、絶えてその人の俤《おもかげ》を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬《あこがれ》に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》った。――故郷《ふるさと》の大通りの辻に、老舗《しにせ》の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿《はさ》んで掲げた。表《おもて》三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳《たたず》んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩《たけがり》をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは朧気《おぼろげ》であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌《いわ》に遮られ、樹に包まれ、兇漢《くせもの》に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は夜《よ》も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽《ふけ》った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで焦《じれ》ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々《がが》たる巌《いわお》、森《しん》とした樹立《こだち》に見えた。丶《くとう》さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今《ただいま》でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一《ひとつ》ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸《きのこ》のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲《たた》かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗《てんぐ》の翼《はね》をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来《ゆきき》の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――
 なつかしき茸狩よ。
 二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。
「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸《きのこ》があればいいんですけど……」
 湯の町の女は、先に立って導いた。……
 湖のなぐれに道を廻《めぐ》ると、松山へ続く畷《なわて》らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆《かれあし》に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》のような螽《いなご》であった。
 一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧《わ》いたように、刈田を沈め、鳰《かいつぶり》を浮かせたのは一昨日の夜《よ》の暴風雨の余残《なごり》と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々《びょうびょう》と汐《しお》が満ちたのである。水は光る。
 橋の袂《たもと》にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎《かげろう》のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下《くだ》っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。
 一筋の道は、湖の只中《ただなか》を霞の渡るように思われた。
 汽車に乗って、がたがた来て、一泊|幾干《いくら》の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越《せんえつ》である。
「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」
「…………」
「姉さんの名は?……」
 女は幾度も口籠りながら、手拭《てぬぐい》の端を俯目《ふしめ》に加《くわ》えて、
「浪路《なみじ》。……」
 と言った。
 ――と言うのである。……読者諸君《みなさん》、女の名は浪路だそうです。

       四

 あれに、翁《おきな》が一人見える。
 白砂の小山の畦道《あぜみち》に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖《つえ》に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾《だいこくずきん》
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング