うちに我ながら思入って、感激した。
 はかない恋の思出がある。

 もう疾《とく》に、余所《よそ》の歴《れっ》きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅《きら》は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙《ござ》に毛氈《もうせん》を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢《えりあか》のついた見すぼらしい、母のない児《こ》の手を、娘さん――そのひとは、厭《いと》わしげもなく、親しく曳《ひ》いて坂を上ったのである。衣《きぬ》の香に包まれて、藤紫の雲の裡《うち》に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿《たど》った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈《きのこ》を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥《はるか》に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵《まきえ》の重に片袖を掛けて、ほっと憩《やす》らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘《かく》そう。その人のいま居る背後《うしろ》に、一本《ひともと》の松は、我がなき母の塚であった。
 向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天《がってん》の御堂《みどう》があった。――幼い私は、人界の茸《きのこ》を忘れて、草がくれに、偏《ひとえ》に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
 弁当に集《あつま》った。吸筒《すいづつ》の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引《ひッ》つかんで声を堪《こら》えた、茨《いばら》の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄《うっちゃ》っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍《そば》の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛《か》んだ。草には露、目には涙、縋《すが》る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅《くれない》の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透《とお》った空もやや翳《かげ》る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、す
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