「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
「煩《うるさ》いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
 とはらりと立って、脛《はぎ》白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下《した》へ下りたが、泣き留《や》まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形《なり》で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋《すが》って泣いじゃくる。
 あるじは、きちんと坐《すわ》り直って、
「どうしたの、酷《ひど》く怯《おび》えたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
 と頬《ほお》に顔をかさぬれば、乳《ち》を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母《おっか》さん。」
「ええ、」
 二人は顔を見合わせた。
 あるじは、居寄って顔を覗《のぞ》き、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
 小児《こども》はなお含んだまま、いたいけに捻向《ねじむ》いて、
「ううむ、内じゃないの。お濠《ほり》ン許《とこ》で、長い尻尾で、あの、目が光って、私《わたい》、私を睨《にら》んで、恐《こわ》かったの。」
 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋《うず》めた。
 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
 からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
 と衝《つ》と立ったが、早急《さっきゅう》だったのと、抱いた重量《おもみ》で、裳《もすそ》を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子《だんばしご》。
「謹さん。」
「…………」
「翌朝《あした》のお米は?」
 と艶麗《はでやか》に莞爾《にっこり》して、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
 と下を向いて高く言った。
 その時|襖《ふすま》の開く音がして、
「おそなわりました、御新造様《ごしんぞさま》。」
 お民は答えず、ほと吐息。円髷《まげ》艶《つや》やかに二三段、片頬《かたほ》を見せて、
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