一所《いっしょ》に居る、女主人《おんなあるじ》の甥《おい》ださうで、信濃《しなの》のもの、継母《ままはは》に苛《いじ》められて家出をして、越後なる叔母《おば》を便《たよ》つたのだと謂《い》ふ。
此のほどから黄昏《たそがれ》に、お辻が屋根へ出て、廂《ひさし》から山手《やまて》の方《ほう》を覗《のぞ》くことが、大抵|日毎《ひごと》、其は二階の窓から私も見た。
一体裏に空地はなし、干物《ほしもの》は屋根でする、板葺《いたぶき》の平屋造《ひらやづくり》で、お辻の家は、其真中《そのまんなか》、泉水のある処《ところ》から、二間梯子《にけんばしご》を懸けてあるので、悪戯《いたずら》をするなら小児《こども》でも上下《あがりおり》は自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手拭《てぬぐい》一筋《ひとすじ》棹《さお》に懸《かか》つて居る時には限らない、恰《あたか》も山の裾《すそ》へかけて紙谷町は、だら/\のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透見《すきみ》をするのだと、内の職人どもが言《ことば》を、小耳《こみみ》にして居るさへあるに、先刻《さっき》転んだことを、目《ま》のあたり知つて居るも道理こそ。
呀《や》、復《また》見て居たの……といつたは其の所為《せい》で、私は何の気もなかつたのであるが、之《これ》を聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧《あか》らめ、
「厭《いや》な!」といつて、口許《くちもと》まで天鵞絨《びろうど》の襟《えり》を引《ひっ》かぶつた。
「そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻《つう》ちやんは転んだのを知つてるし、彼《あ》のをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆《みんな》知つて居ら、をかしいな。」
四
「え!」と慌《あわただ》しく顔を出して、まともに向直《むきなお》つて、じつと見て、
「今夜泊ることを知つて居ました?」
「あゝ、整《ちゃん》と然《そ》う言つたんだもの。」
お辻は美しい眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。燈火《ともしび》の影暗く、其の顔|寂《さみ》しう、
「恐《おそろ》しい人だこと、」といひかけて、再び面《おもて》を背《そむ》けると、又|深々《ふかぶか》と夜具《やぐ》をかけた。
「辻《つう》ちやん。」
「…………」
「辻《つう》ちやんてば、」
「…………」
「よう。」
こんな約束ではなかつたのである、俊徳丸《しゅんとくまる》の物語のつゞき、それから手拭《てぬぐい》を藪《やぶ》へ引いて行つた、踊《おどり》をする三《さん》といふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰《つま》らない、寂《さび》しい、心細い、私は帰らうと思つた。丁《ちょう》ど其時《そのとき》、どんと戸を引いて、かたりと鎖《じょう》をさした我家《わがや》の響《ひびき》。
胸が轟《とどろ》いて掻巻《かいまき》の中で足をばた/\したが、堪《たま》らなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開《あ》いて耳を澄《すま》すと、物音は聞えないで、却《かえっ》て戸外《おもて》なる町が歴然《ありあり》と胸に描かれた、暗《やみ》である。駆けて出て我家《わがや》の門《かど》へ飛着《とびつ》いて、と思ふに、夜《よ》も恁《こ》う更《ふ》けて、他人《ひと》の家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜|寐《ね》つきに聞く職人が湯から帰る跫音《あしおと》も、向うと此方《こちら》、音にも裏表《うらおもて》があるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情《なさけ》なくなつて、枕頭《まくらもと》に下《おろ》した戸外《おもて》から隔ての蔀《しとみ》が、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。
ものの懸念さに、母様《おっかさん》をはじめ、重吉《じゅうきち》も、嘉蔵《かぞう》も呼立《よびた》てる声も揚げられず、呼吸《いき》さへ高くしてはならない気がした。
密《そっ》と見れば、お辻はすや/\と糸が揺れるやうに幽《かすか》な寐息《ねいき》。
これも何者かに命ぜられて然《し》かく寐《ね》入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復《また》横になつて、足を屈《かが》めて、目を塞《ふさ》いだ。
けれども今しがた、お辻が(恐《おそろ》しい人だこと、)といつた時、其の顔色とともに灯《あかし》が恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電《いなびかり》でもするかの如く、恐る/\目をあけて見ると、最《も》う真暗《まっくら》、灯《あかり》はいつの間《ま》にか消えて居る。
はツと驚いて我ながら、自分の膚《はだ》に手を触れて、心臓《むね》をしつかと圧《おさ》へた折から、芬々《ぷんぷん》として薫《にお》つたのは、橘《たちばな》の音信《おとずれ》か、あらず、仏壇の香《こう》の名残《なごり》か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂《におい》であつた。
しかも梅の影がさして、窓がぽつと明《あかる》くなる時、縁《えん》に蚊遣《かやり》の靡《なび》く時、折に触れた今までに、つい其夜《そのよ》の如く香《か》の高かつた事はないのである。
瓶《びん》か、壺《つぼ》か、其の薬が宛然《さながら》枕許《まくらもと》にでもあるやうなので、余《あまり》の事に再び目をあけると、暗《くらやみ》の中に二枚の障子。件《くだん》の泉水《せんすい》を隔てて寝床の裾《すそ》に立つて居るのが、一間《いっけん》真蒼《まっさお》になつて、桟《さん》も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
見る/\裡《うち》に、べら/\と紙が剥《は》げ、桟が吹《ふ》ツ消《け》されたやうに、ありのまゝで、障子が失《う》せると、羽目《はめ》の破目《やぶれめ》にまで其の光が染《し》み込んだ、一坪の泉水を後《うしろ》に、立顕《たちあらわ》れた婦人《おんな》の姿。
解《と》き余る鬢《びん》の堆《うずたか》い中に、端然として真向《まむき》の、瞬《またた》きもしない鋭い顔は、正《まさ》しく薬屋の主婦《あるじ》である。
唯《と》見る時、頬《ほお》を蔽《おお》へる髪のさきに、ゆら/\と波立《なみだ》つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭《はだかろうそく》の蒼《あお》い光を放つのを、左手《ゆんで》に取つてする/\と。
五
其の裳《もすそ》の触《ふ》るゝばかり、すツくと枕許に突立《つった》つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸《いき》を殺した、顔も冷《つめと》うなるまでに、室《ま》の内を隈《くま》なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚《なまめ》いた声して、
「腕白《わんぱく》、先刻《さっき》はよく人の深切《しんせつ》を無にしたね。」
私は石になるだらうと思つて、一思《ひとおもい》に窘《すく》んだのである。
「したが私の深切を受ければ、此の女《むすめ》に不深切になる処《ところ》。感心にお前、母様《おっかさん》に結んで頂いた帯を〆《し》めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚《おうよう》に笑つた。姐御《あねご》真実《まったく》だ、最《も》う堪《たま》らぬ。
途端に人膚《ひとはだ》の気勢《けはい》がしたので、咽喉《のど》を噛《かま》れたらうと思つたが、然《そ》うではなく、蝋燭が、敷蒲団《しきぶとん》の端と端、お辻と並んで合せ目の、畳《たたみ》の上に置いてあつた。而《そう》して婦人《おんな》は膝《ひざ》をついて、のしかゝるやうにして、鬢《びん》の間《あい》から真白な鼻で、お辻の寐《ね》顔の半《なかば》夜具《やぐ》を引《ひっ》かついで膨らんだ前髪の、眉《まゆ》のかゝり目のふちの稍《やや》曇つて見えるのを、じつと覗込《のぞきこ》んで居るのである。おゝ、あはれ、小《ささ》やかに慎《つつ》ましい寐姿は、藻脱《もぬけ》の殻か、山に夢がさまよふなら、衝戻《つきもど》す鐘も聞えよ、と念じ危《あや》ぶむ程こそありけれ。
婦人《おんな》は右手《めて》を差伸《さしのば》して、結立《ゆいたて》の一筋《ひとすじ》も乱れない、お辻の高島田を無手《むず》と掴《つか》んで、づツと立つた。手荒さ、烈《はげ》しさ。元結《もとゆい》は切れたから、髪のずるりと解《と》けたのが、手の甲《こう》に絡《まつ》はると、宙に釣《つる》されるやうになつて、お辻は半身《はんしん》、胸もあらはに、引起《ひきおこ》されたが、両手を畳に裏返して、呼吸《いき》のあるものとは見えない。
爾時《そのとき》、右手《めて》に黒髪を搦《から》んだなり、
「人もあらうに私の男に懸想《けそう》した。さあ、何《ど》うするか、よく御覧。」
左手《ゆんで》の肱《ひじ》を鍵形《かぎなり》に曲げて、衝《つ》と目よりも高く差上《さしあ》げた、掌《たなそこ》に、細長い、青い、小さな瓶《びん》あり、捧げて、俯向《うつむ》いて、額《ひたい》に押当《おしあ》て、
「呪詛《のろい》の杉より流れし雫《しずく》よ、いざ汝《なんじ》の誓《ちかい》を忘れず、目《ま》のあたり、験《しるし》を見せよ、然《さ》らば、」と言つて、取直《とりなお》して、お辻の髪の根に口を望ませ、
「あの美少年と、容色《きりょう》も一対《いっつい》と心上《こころあが》つた淫奔女《いたずらもの》、いで/\女の玉《たま》の緒《お》は、黒髪とともに切れよかし。」
と恰《あたか》も宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯《さっ》とかゝつて、千筋《ちすじ》の紅《くれない》溢《あふ》れて、糸を引いて、ねば/\と染《にじ》むと思ふと、丈《たけ》なる髪はほつり[#「ほつり」に傍点]と切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土気色《つちけいろ》の頬《ほお》を蒲団《ふとん》に埋《うず》めた。
玉の緒か、然《さ》らば玉の緒は、長く婦人《おんな》の手に奪はれて、活《い》きたる如く提《ひっさ》げられたのである。
莞爾《かんじ》として朱《しゅ》の唇の、裂けるかと片頬笑《かたほえ》み、
「腕白《わんぱく》、膝《ひざ》へ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女《むすめ》は殺せたものを、夜《よ》が明けるまで黙つて寐《ね》なよ。」といひすてにして、細腰《さいよう》楚々《そそ》たる後姿《うしろすがた》、肩を揺《ゆす》つて、束《つか》ね髱《たぼ》がざわ/\と動いたと見ると、障子の外。
蒼《あお》い光は浅葱幕《あさぎまく》を払つたやうに颯《さっ》と消えて、襖《ふすま》も壁も旧《もと》の通り、燈《ともしび》が薄暗く点《つ》いて居た。
同時に、戸外《おもて》を山手《やまて》の方《かた》へ、からこん/\と引摺《ひきず》つて行く婦人《おんな》の跫音《あしおと》、私はお辻の亡骸《なきがら》を見まいとして掻巻《かいまき》を被《かぶ》つたが、案外かな。
抱起《だきおこ》されると眩《まばゆ》いばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨夜《ゆうべ》のお辻で、高島田も其まゝ、早《は》や朝の化粧《けわい》もしたか、水の垂《た》る美しさ。呆気《あっけ》に取られて目も放さないで目詰《みつ》めて居ると、雪にも紛《まが》ふ頸《うなじ》を差《さし》つけ、くツきりした髷《まげ》の根を見せると、白粉《おしろい》の薫《かおり》、櫛《くし》の歯も透通《すきとお》つて、
「島田がお好《すき》かい、」と唯《ただ》あでやかなものであつた。私は家に帰つて後《のち》も、疑《うたがい》は今に解《と》けぬ。
お辻は十九で、敢《あえ》て不思議はなく、煩《わずら》つて若死《わかじに》をした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚然《ぞっ》としたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「天地人」
19
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