処方秘箋
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此《こ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五月|中旬《なかば》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「石+車」、第3水準1−89−5]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちよこ/\
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        一

 此《こ》の不思議なことのあつたのは五月|中旬《なかば》、私が八歳《やっつ》の時、紙谷町《かみやまち》に住んだ向うの平家《ひらや》の、お辻《つじ》といふ、十八の娘、やもめの母親と二人ぐらし。少しある公債を便りに、人仕事《ひとしごと》などをしたのであるが、つゞまやかにして、物綺麗《ものぎれい》に住んで、お辻も身だしなみ好《よ》く、髪形《かみかたち》を崩さず、容色《きりょう》は町々の評判、以前五百|石取《こくどり》の武家《ぶけ》、然《しか》るべき品《ひん》もあつた、其家《そのいえ》へ泊りに行つた晩の出来事で。家《うち》も向ひ合せのことなり、鬼ごツこにも、※[#「石+車」、第3水準1−89−5]《きしゃご》はじきにも、其家《そこ》の門口《かどぐち》、出窓の前は、何時《いつ》でも小児《こども》の寄合《よりあ》ふ処《ところ》。次郎だの、源《げん》だの、六《ろく》だの、腕白《わんぱく》どもの多い中に、坊《ぼう》ちやん/\と別ものにして可愛《かわい》がるから、姉はなし、此方《こなた》からも懐《なつ》いて、ちよこ/\と入つては、縫物《ぬいもの》を交返《まぜかえ》す、物差《ものさし》で刀の真似、馴《なれ》ツこになつて親《したし》んで居たけれども、泊るのは其夜《そのよ》が最初《はじめて》。
 西の方《かた》に山の見ゆる町の、上《かみ》の方《かた》へ遊びに行つて居たが、約束を忘れなかつたから晩方《ばんがた》に引返《ひっかえ》した。之《これ》から夕餉《ゆうげ》を済《すま》してといふつもり。
 小走《こばし》りに駆けて来ると、道のほど一|町《ちょう》足《た》らず、屋《や》ならび三十ばかり、其《そ》の山手《やまて》の方に一軒の古家《ふるいえ》がある、丁《ちょう》ど其処《そこ》で、兎《うさぎ》のやうに刎《は》ねたはずみに、礫《こいし》に躓《つまず》いて礑《はた》と倒れたのである。
 俗にいふ越後は八百八後家《はっぴゃくやごけ》、お辻が許《とこ》も女ぐらし、又|海手《うみて》の二階屋も男気《おとこげ》なし、棗《なつめ》の樹《き》のある内も、男が出入《ではいり》をするばかりで、年増《としま》は蚊帳《かや》が好《すき》だといふ、紙谷町一町の間《あいだ》に、四軒、いづれも夫なしで、就中《なかんずく》今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。
 何処《いずこ》も同一《おなじ》、雪国の薄暗い屋造《やづくり》であるのに、廂《ひさし》を長く出した奥深く、煤《すす》けた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝《さら》された上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘《めい》だか誰《たれ》も知つたものはない。藍《あい》を入れた字のあとは、断々《きれぎれ》になつて、恰《あたか》も青い蛇《へび》が、渦《うずま》き立つ雲がくれに、昇天をする如く也《なり》。
 別に、風邪薬《かざぐすり》を一|貼《ちょう》、凍傷《しもやけ》の膏薬《こうやく》一貝《ひとかい》買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙《あけぼの》、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉《ろ》の榾《ほだ》の消《き》ゆる時、夜中にフト目の覚《さ》むる折など、町中《まちなか》を籠《こ》めて芬々《ぷんぷん》と香《にお》ふ、湿《しめ》ぽい風は薬屋の気勢《けはい》なので。恐らく我国の薬種《やくしゅ》で無からう、天竺《てんじく》伝来か、蘭方《らんぽう》か、近くは朝鮮、琉球《りゅうきゅう》あたりの妙薬に相違ない。然《そ》う謂《い》へば彼《あ》の房々《ふさふさ》とある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目前《まのあたり》、解《と》いたら裾《すそ》に靡《なび》くであらう。常に其《それ》を、束《たば》ね髪《がみ》にしてカツシと銀《しろがね》の簪《かんざし》一本、濃く且《か》つ艶《つやや》かに堆《うずたか》い鬢《びん》の中から、差覗《さしのぞ》く鼻の高さ、頬《ほお》の肉しまつて色は雪のやうなのが、眉《まゆ》を払つて、年紀《とし》の頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。
 内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小児《こども》の気にも、暮方《くれがた》には前を通るさへ駆け出すばかりにする。真昼間《まっぴるま》、向う側から密《そっ》と透《すか》して見ると、窓も襖《ふすま》も閉切《しめき》つて、空屋に等しい暗い中に、破風《はふ》の隙《ひま》から、板目《いため》の節《ふし》から、差入《さしい》る日の光|一筋《ひとすじ》二筋《ふたすじ》、裾広《すそひろ》がりにぱつと明《あかる》く、得《え》も知れぬ塵埃《ちりほこり》のむら/\と立つ間《あいだ》を、兎《と》もすればひら/\と姿の見える、婦人《おんな》の影。
 転んで手をつくと、はや薬の匂《におい》がして膚《はだえ》を襲つた。此の一町《いっちょう》がかりは、軒《のき》も柱も土も石も、残らず一種の香《か》に染《し》んで居る。
 身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処《ここ》はと思ふと、怪しいものに捕《とら》へられた気がして、わつと泣き出した。

        二

「あれ危《あぶな》い。」と、忽《たちま》ち手を伸《の》べて肩をつかまへたのは彼《か》の婦人《おんな》で。
 其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ふりもぎ》らうとして身をあせつて、仔雀《こすずめ》の羽《は》うつ風情《ふぜい》。
 怪しいものでも声は優しく、
「おゝ、膝《ひざ》が擦剥《すりむ》けました、薬をつけて上げませう。」と左手《ゆんで》には何《ど》うして用意をしたらう、既に薫《かおり》の高いのを持つて居た。
 守宮《やもり》の血で二《に》の腕《うで》に極印《ごくいん》をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何《ど》うしよう。
「厭《いや》だ、厭だ。」と、しやにむに身悶《みもだえ》して、声高《こわだか》になると、
「強情だねえ、」といつたが、漸《やっ》と手を放し、其のまゝ駆出《かけだ》さうとする耳の底へ、
「今夜、お辻さんの処《ところ》へ泊りに行《ゆ》くね。」
 といふ一聯《いちれん》の言《ことば》を刻《きざ》んだのを、……今に到つて忘れない。
 内へ帰ると早速、夕餉《ゆうげ》を済《すま》し、一寸《ちょいと》着換《きか》へ、糸、犬、錨《いかり》、などを書いた、読本《どくほん》を一冊、草紙《そうし》のやうに引提《ひっさ》げて、母様《おっかさん》に、帯の結目《むすびめ》を丁《トン》と叩《たた》かれると、直《すぐ》に戸外《おもて》へ。
 海から颯《さっ》と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ/\、をばさん、辻《つう》ちやんと呼びざまに、からりと開《あ》けて飛込《とびこ》んだ。
 人仕事《ひとしごと》に忙《いそがわ》しい家の、晩飯の支度は遅く、丁《ちょう》ど御膳《ごぜん》。取附《とっつき》の障子を開《あ》けると、洋燈《ランプ》の灯《あかし》も朦朧《もうろう》とするばかり、食物《たべもの》の湯気が立つ。
 冬でも夏でも、暑い汁《つゆ》の好《すき》だつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀《わん》を持つたまゝ、ほてつた顔をして、
「おや、おいで。」
「大層おもたせぶりね、」とお辻は箸箱《はしばこ》をがちやりと云はせる。
 母親もやがて茶碗の中で、さら/\と洗つて塗箸《ぬりばし》を差置《さしお》いた。
 手で片頬《かたほ》をおさへて、打傾《うちかたむ》いて小楊枝《こようじ》をつかひながら、皿小鉢《さらこばち》を寄せるお辻を見て、
「あしたにすると可《い》いやね、勝手へ行つてたら坊《ぼう》ちやんが淋《さび》しからう、私は直《すぐ》に出懸《でか》けるから。」
「然《そ》うねえ。」
「可《い》いよ、可《い》いよ、構《かま》やしないや、独《ひとり》で遊んでら。」と無雑作《むぞうさ》に、小さな足で大胡坐《おおあぐら》になる。
「ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。」
「大人《おとな》しいね。感心、」と頭を撫《な》でる手つきをして、
「どれ、其《それ》では、」楊枝を棄《す》てると、やつとこさ、と立ち上つた。
 お辻が膳《ぜん》を下げる内に、母親は次の仏間《ぶつま》で着換《きか》へる様子、其処《そこ》に箪笥《たんす》やら、鏡台やら。
 最一《もひと》ツ六畳が別に戸外《おもて》に向いて居て、明取《あかりとり》が皆《みんな》で三|間《げん》なり。
 母親はやがて、繻子《しゅす》の帯を、前結びにして、風呂敷包《ふろしきづつみ》を持つて顕《あらわ》れた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈《たけ》も至つて低く、顔容《かおかたち》も小造《こづくり》な人で、髪も小さく結《ゆ》つて居た。
「それでは、お辻や。」
「あい、」と、がちや/\いはせて居た、彼方《かなた》の勝手で返事をし、襷《たすき》がけのまゝ、駆けて来て、
「気をつけて行らつしやいましよ。」
「坊《ぼっ》ちやん、緩《ゆっく》り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可《いけ》ませんよ、何《ど》うも御苦労様なことツたら、」
 とあとは独言《ひとりごと》、框《かまち》に腰をかけて、足を突出《つきだ》すやうにして下駄《げた》を穿《は》き、上へ蔽《おっ》かぶさつて、沓脱越《くつぬぎごし》に此方《こちら》から戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ/\と出て行つた。渠《かれ》は些《ち》と遠方をかけて、遠縁のものの通夜《つや》に詣《まい》つたのである。其がために女《むすめ》が一人だからと、私を泊《と》めたのであつた。

        三

 枕に就《つ》いたのは、良《やや》ほど過ぎて、私の家《うち》の職人衆が平時《いつも》の湯から帰る時分。三人づれで、声高《こわだか》にものを言つて、笑ひながら入つた、何《ど》うした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又|笑声《わらいごえ》がして、其から寂然《ひっそり》。
 戸外《おもて》の方は騒がしい、仏間《ぶつま》の方《かた》を、とお辻はいつたけれども其方《そっち》を枕にすると、枕頭《まくらもと》の障子|一重《ひとえ》を隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩《たたき》の泉水《せんすい》があつて、空は同一《おなじ》ほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降込《ふりこ》むし、水が溜《たま》つて濡《ぬ》れて居るのに、以前|女髪結《おんなかみゆい》が住んで居て、取散《とりちら》かした元結《もっとい》が化《な》つたといふ、足巻《あしまき》と名づける針金に似た黒い蚯蚓《みみず》が多いから、心持《こころもち》が悪くつて、故《わざ》と外を枕にして、並んで寝たが、最《も》う夏の初めなり、私には清らかに小掻巻《こがいまき》。
 寝る時、着換《きか》へて、と謂《い》つて、女《むすめ》の浴衣《ゆかた》と、紅《あか》い扱帯《しごき》をくれたけれども、角兵衛獅子《かくべえじし》の母衣《ほろ》ではなし、母様《おっかさん》のいひつけ通り、帯を〆《し》めたまゝで横になつた。
 お辻は寒さをする女《むすめ》で、夜具《やぐ》を深く被《か》けたのである。
 唯《と》顔を見合せたが、お辻は思出《おもいだ》したやうに、莞爾《にっこり》して、
「さつき、駆出《かけだ》して来て、薬屋の前でころんだのね、大《おおき》な形《なり》をして、をかしかつたよ。」
「呀《や》、復《また》見て居たの、」と私は思はず。……
 之《これ》は此の春頃から、其まで人の出入《ではいり》さへ余りなかつた上《かみ》の薬屋が方《かた》へ、一|人《にん》の美少年が来て
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