と尻餅を支《つ》くと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚《わめ》く。
「何だ。」
と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ茱萸《ぐみ》を投附ける。宮浜。」
と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲《なげう》つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子《まどがらす》を映《さ》す火の粉であった。
途端に十二時、鈴《りん》を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦《すりばん》、早鐘。
早や廊下にも烟《けむり》が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼《あお》い門が、真紫に物凄《ものすご》い。
この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹《おおでら》の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時《みとき》が間に市の約全部を焼払った。
烟は風よりも疾《と》く、火は鳥よりも迅《はや》く飛んだ。
人畜の死傷少からず。
火事の最中、雑所先生、袴《はかま》の股立《ももだち》を、高く取ったは効々《かいがい》しいが、羽織も着ず……布子の片袖|引断《ひっちぎ》れたなりで、足袋跣足《たびはだし》で、据眼《すえまなこ》の面《おもて》藍《あい》のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉《ひょろひょろ》と歩行《ある》いていた。
屋根から屋根へ、――樹の梢《こずえ》から、二階三階が黒烟りに漾《ただよ》う上へ、飜々《ひらひら》と千鳥に飛交う、真赤《まっか》な猿の数を、行《ゆ》く行く幾度も見た。
足許《あしもと》には、人も車も倒れている。
とある十字街へ懸《かか》った時、横からひょこりと出て、斜《はす》に曲り角へ切れて行《ゆ》く、昨夜《ゆうべ》の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確《しか》とした足取であった。
が、赤旗を捲《ま》いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡《しゅんじゅん》の体《てい》して、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
と口の裡《うち》で呟《つぶや》いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠《いしどうろう》の大《おおき》なのがある。何某《なにがし》の邸《やしき》の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下《もと
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