「ふふふ、むしろ一つの癖《くせ》だろう。」
「何か知らんが、名歌だッたよ。」
「しかし伺《うかが》おう。何と言うのだ。」
 学生はしばらく沈思《ちんし》せり。その間に「年波《としなみ》」、「八重の潮路《しおじ》」、「渡守《わたしもり》」、「心なるらん」などの歌詞《うたことば》はきれぎれに打誦《うちずん》ぜられき。渠《かれ》はおのれの名歌を忘却《ぼうきゃく》したるなり。
「いや、名歌《めいか》はしばらく預ッておいて、本文《ほんもん》に懸《かか》ろう。そうこうしているうちに船頭が出て来た。見ると疲曳《よぼよぼ》の爺様《じいさん》さ。どうで隠居《いんきょ》をするというのだから、老者《としより》は覚悟《かくご》の前だッたが、その疲曳《よぼよぼ》が盲《めくら》なのには驚いたね。
 それがまた勘《かん》が悪いと見えて、船着《ふなつき》まで手を牽《ひか》れて来る始末だ。無途方《むてっぽう》も極《きわま》れりというべしじゃないか。これで波の上を漕《こ》ぐ気だ。皆《みんな》呆《あき》れたね。険難千方《けんのんせんばん》な話さ。けれども潟《かた》の事だから川よりは平穏だから、万一《まさか》の事もあるまい、と好事《ものずき》な連中《れんじゅう》は乗ッていたが、遁《に》げた者も四五人は有《あ》ッたよ。僕も好奇心《こうきしん》でね、話の種《たね》だと思ッたから、そのまま乗って出るとまた驚いた。
 実に見せたかッたね、その疲曳《よぼよぼ》の盲者《めくら》がいざと言《い》ッて櫓柄《ろづか》を取ると、※[#「にんべん+乞」、第3水準1−14−8]然《しゃっきり》としたものだ、まるで別人さね。なるほどこれはその道《みち》に達したものだ、と僕は想《おも》ッた。もとよりあのくらいの潟《かた》だから、誰だッて漕《こ》げるさ、けれどもね、その体度《たいど》だ、その気力《きあい》だ、猛将《もうしょう》の戦《たたかい》に臨《のぞ》んで馬上に槊《さく》を横《よこた》えたと謂ッたような、凛然《りんぜん》として奪《うば》うべからざる、いや実にその立派さ、未だに僕は忘れんね。人が難《わけ》のない事を(眠っていても出来る)と言うが、その船頭は全くそれなのだ。よく聞いて見ると、その理《はず》さ。この疲曳《よぼよぼ》の盲者《めくら》を誰《たれ》とか為《な》す! 若い時には銭屋五兵衛《ぜにやごへえ》の抱《かかえ》で、年中千五
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