鱒がありますね。」
と心得たもので、
「照焼《てりやき》にして下さい。それから酒は罎詰《びんづめ》のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」
束髪《そくはつ》に結《ゆ》った、丸ぽちゃなのが、
「はいはい。」
と柔順《すなお》だっけ。
小用《こよう》をたして帰ると、もの陰から、目を円《まる》くして、一大事そうに、
「あの、旦那様。」
「何だい。」
「照焼にせいという、お誂《あつらえ》ですがなあ。」
「ああ。」
「川鱒《かわます》は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可《いけ》ないですかな。」
「ああ、結構だよ。」
やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁《こいこく》である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料《りょう》られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。
口を溢《こぼ》れそうに、なみなみと二合のお銚子《ちょうし》。
いい心持《こころもち》の処《ところ》へ、またお銚子が出た。
喜多八《きたはち》の懐中、これにきたなくもうしろを見せて、
「こいつは余計だっけ。」
「でも、あの、四合罎《しごうびん》一本、よそから取って上げましたので、なあ。」
私は膝を拍《う》って、感謝した。
「よし、よし、有難《ありがと》う。」
香《こう》のものがついて、御飯をわざわざ炊《た》いてくれた。
これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人《ににん》分です。
「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」
やがて停車場《ステエション》へ出ながら視《み》ると、旅店《はたごや》の裏がすぐ水田《みずた》で、隣《となり》との地境《じざかい》、行抜《ゆきぬ》けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も結《ゆ》わないが、遊んでいた小児《こども》たちも、いたずらはしないと見える。
ほかにも、商屋《あきないや》に、茶店に、一軒ずつ、庭あり、背戸《せど》あれば牡丹がある。往来《ゆきき》の途中も、皆そうであった。かつ溝川《みぞがわ》にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家《こいえ》にさえ、大抵《たいてい》皆、菖蒲《あやめ》、杜若《かきつばた》を植えていた。
弁財天の御心《みこころ》が、自《おのずか》ら土地にあらわれるのであろう。
忽《たちま》ち、風暗く、柳が靡《なび》いた。
停車場《ステエション》へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
2001(平成13)年2月5日第21刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月初版発行
初出:「人間」
1921(大正10)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田進、鈴木厚司
2003年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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