さんは留守にした己《おのれ》の店の、草鞋《わらじ》の下を潜《くぐ》って入った。
 草履を土間に脱いで、一渡《ひとわたり》店の売物に目を配ると、真中《まんなか》に釣《つる》した古いブリキの笠の洋燈《ランプ》は暗いが、駄菓子にも飴《あめ》にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
「可恐《おそろ》しい唸《うなり》じゃな。」と呟《つぶや》いて、一|間口《けんぐち》の隔《へだて》の障子の中へ、腰を曲げて天窓《あたま》から入ると、
「おう、帰ったのか。」
「おや。」
「酷《ひど》い蚊だなあ。」
「まあ、お前様《めえさま》。まあ、こんな中に先刻《さっき》にからござらせえたか。」
「今しがた。」
「暗いから、はや、なお耐《たま》りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外《ひっぱず》してござれば可《よ》いに。」
 深切を叱言《こごと》のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
「可《い》いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢《けはい》がした。
「近所の静まるまで、もうちっと灯《あかし》を点《つ》けないでおけよ。」
「へい。」
「覗《のぞ》くと煩《うるさ》いや。」
「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」
「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」
「可いようにさっしゃりませ。」
「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人|此家《ここ》へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」
「お友達かね。お前様は物事《ものずき》じゃで可《よ》いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」
 言いも終らず、快活に、
「気扱いがいる奴じゃねえ、汚《きたね》え婦人《おんな》よ。」
「おや!」と頓興《とんきょ》にいった、婆《ばば》の声の下にくすくすと笑うのが聞える。
「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児《こども》の声、繰返して、
「おくんな。」
「おい。」
「静《しずか》に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。

       二十

 婆《ばば》が帰った後《あと》、縁側に身を開いて、一人は柱に凭《よ》って仰向《あおむ》き、一人は膝に手を置いて俯向《うつむ》いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お
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