は、峰の松に遮《さえぎ》られるから、その姿は見えぬ。最《も》っと乾《いぬい》の位置で、町端《まちはずれ》の方へ退《さが》ると、近山《ちかやま》の背後《うしろ》に海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然《ありあり》と見える。……
 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場《ステエション》を出た所の、故郷《ふるさと》は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時《しばらく》茫然《ぼうぜん》として彳《たたず》んだのは、つい二、三日前の事であった。
 腕車《くるま》を雇って、さして行《ゆ》く従姉《いとこ》の町より、真先に、
「あの山は?」
「二股《ふたまた》じゃ。」と車夫《くるまや》が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端《まちはずれ》まで、小児《こども》の時には行《ゆ》かなかったので、唯《ただ》名に聞いた、五月晴《さつきばれ》の空も、暗い、その山。

       三

 その時は何んの心もなく、件《くだん》の二股を仰《あお》いだが、此処《ここ》に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名《くもだいみょう》が庄屋をすると、可怪《あや》しく胸に響くのであった。
 まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫《いもむし》が髪を結《ゆ》って、緋《ひ》の腰布《こしぬの》を捲《ま》いたような侏儒《いっすんぼし》の婦《おんな》が、三人ばかりいた。それが、見世ものの踊《おどり》を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁《ふち》へ両手を掛けて、横に両脚《りょうあし》でドブンと浸《つか》る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
 そう言えば湯屋《ゆや》はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼《りょうがん》真黄色《まっきいろ》な絵具の光る、巨大な蜈※[#「虫+松」、第4水準2−87−53]《むかで》が、赤黒い雲の如く渦《うず》を巻いた真中に、俵藤太《たわらとうだ》が、弓矢を挟《はさ》んで身構えた暖簾《のれん》が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯《やなぎゆ》、と白抜きのに懸替《かけかわ》って、門《かど》の目印の柳と共に、枝垂《しだ》れたようになって、折から森閑《しんかん》と風もない。
 人通りも殆ど途絶えた。
 が、何処《どこ》ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸《がらすど》の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽《あお》ったような響《ひびき》
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