いや、こうも、他愛《たわい》のない事を考えるのも、思出すのも、小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》くにつけて、人は知らず、自分で気が咎《とが》める己《おの》が心を、我《われ》とさあらぬ方《かた》へ紛《まぎ》らそうとしたのであった。
さて、この辻から、以前織次の家のあった、某《なにがし》……町の方へ、大手筋《おおてすじ》を真直《まっすぐ》に折れて、一|丁《ちょう》ばかり行った処《ところ》に、小北の家がある。
両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側《むこうがわ》だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水《ようじんみず》の水溜《みずたまり》で、石畳みは強勢《ごうせい》でも、緑晶色《ろくしょういろ》の大溝《おおみぞ》になっている。
向うの溝から鰌《どじょう》にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌《しゃべ》るのは、けだしこの水溜《みずたまり》からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰《ゆきかえ》りに、織次は独《ひと》りでそう考えたもので。
同一《おなじ》早饒舌《はやしゃべ》りの中に、茶釜雨合羽《ちゃがまあまがっぱ》と言うのがある。トあたかもこの溝の左角《ひだりかど》が、合羽屋《かっぱや》、は面白い。……まだこの時も、渋紙《しぶかみ》の暖簾《のれん》が懸《かか》った。
折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過《ゆきす》ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出《あるきだ》した時、織次は帽子の庇《ひさし》を下げたが、瞳《ひとみ》を屹《きっ》と、溝の前から、件《くだん》の小北の店を透かした。
此処《ここ》にまた立留《たちどま》って、少時《しばらく》猶予《ためら》っていたのである。
木格子《きごうし》の中に硝子戸《がらすど》を入れた店の、仕事の道具は見透《みえす》いたが、弟子の前垂《まえだれ》も見えず、主人《あるじ》の平吉が半纏《はんてん》も見えぬ。
羽織の袖口《そでくち》両方が、胸にぐいと上《あが》るように両腕を組むと、身体《からだ》に勢《いきおい》を入れて、つかつかと足を運んだ。
軒《のき》から直ぐに土間《どま》へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
「御免なさいよ。」
「はいはい。」
と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦《おんな》は、下膨《しもぶく》れの色白で、真中から鬢《びん》を分けた濃い毛の束《たば》ね髪《が
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