医者も蒼《あお》くなって、騒いだが、神の扶《たす》けかようよう生命《いのち》は取留《とりと》まり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具《かたわ》。
 これが引摺《ひきず》って、足を見ながら情なそうな顔をする。蟋蟀《きりぎりす》が※[#「夕」に「ふしづくり」下に「手」 178−9]《も》がれた脚《あし》を口に銜《くわ》えて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。
 しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦《すこじれ》で、医者は恐《おそろ》しい顔をして睨《にら》みつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋《すが》るさまに、年来随分《としごろずいぶん》と人を手にかけた医者も我《が》を折って腕組《うでぐみ》をして、はッという溜息《ためいき》。
 やがて父親《てておや》が迎《むかえ》にござった、因果《いんが》と断念《あきら》めて、別に不足はいわなんだが、何分|小児《こども》が娘の手を放れようといわぬので、医者も幸《さいわい》、言訳《いいわけ》かたがた、親兄《おやあに》の心をなだめるため、そこで娘に小児《こども》を家《うち》まで送らせることにした。
 送って来たのが孤家《ひとつや》で。
 その時分はまだ一個の荘《そう》、家も小《こ》二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留《とうりゅう》した五日目から大雨が降出《ふりだ》した。滝を覆《くつがえ》すようで小歇《おやみ》もなく家に居ながら皆簑笠《みんなみのかさ》で凌《しの》いだくらい、茅葺《かやぶき》の繕《つくろ》いをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣《となり》同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種《ひとだね》の世に尽《つ》きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠《こも》ると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠《とうげ》というところでたちまち泥海《どろうみ》。
 この洪水《こうずい》で生残ったのは、不思議にも娘と小児《こども》とそれにその時村から供をしたこの親仁《おやじ》ばかり。
 おなじ水で医者の内も死絶《しにた》えた、さればかような美女が片田舎《かたいなか》に生れたのも国が世がわり、代《だい》がわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。
 嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児《こども》と一所に山に留《とど》まったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴《ばか》につきそって行届《ゆきとど》いた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。
 といい果てて親仁《おやじ》はまた気味の悪い北叟笑《ほくそえみ》。
(こう身の上を話したら、嬢様を不便《ふびん》がって、薪《まき》を折ったり水を汲《く》む手助けでもしてやりたいと、情が懸《かか》ろう。本来の好心《すきごころ》、いい加減な慈悲《じひ》じゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措《お》かっしゃい。あの白痴殿《ばかどの》の女房になって世の中へは目もやらぬ換《かわり》にゃあ、嬢様は如意《にょい》自在、男はより取って、飽《あ》けば、息をかけて獣《けもの》にするわ、殊にその洪水以来、山を穿《うが》ったこの流は天道様《てんとうさま》がお授けの、男を誘《いざな》う怪《あや》しの水、生命《いのち》を取られぬものはないのじゃ。
 天狗道《てんぐどう》にも三熱の苦悩《くのう》、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩《や》せて手足が細れば、谷川を浴びると旧《もと》の通り、それこそ水が垂るばかり、招けば活《い》きた魚《うお》も来る、睨《にら》めば美しい木《こ》の実《み》も落つる、袖《そで》を翳《かざ》せば雨も降るなり、眉《まゆ》を開けば風も吹くぞよ。
 しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好《すき》じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実《まこと》としたところで、やがて飽《あ》かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。
 いややがて、この鯉を料理して、大胡坐《おおあぐら》で飲む時の魔神の姿が見せたいな。
 妄念《もうねん》は起さずに早うここを退《の》かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加《いのちみょうが》な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)とまた一ツ背中を叩《たた》いた、親仁《おやじ》は鯉を提《さ》げたまま見向きもしないで、山路《やまじ》を上《かみ》の方。
 見送ると小さくなって、一座の大山《おおやま》の背後《うしろ》へかくれたと思うと、油旱《あぶらひでり》の焼けるような空に、その山の巓《いただき》から、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々《いんいん》として雷《らい》の響《ひびき》。
 藻抜《もぬ》けのように立っていた、私《わし》が
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