けぼうき》で引払《ひっぱた》いては八方へ散らばって体中に集《たか》られてはそれは凌《しの》げませぬ即死《そくし》でございますがと、微笑《ほほえ》んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄《すさま》じい虫の唸《うなり》、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚《あし》を振うのがある、中には掴んだ指の股《また》へ這出《はいだ》しているのがあった。
 さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛《くも》の巣のように評判が八方へ。
 その頃《ころ》からいつとなく感得したものとみえて、仔細《しさい》あって、あの白痴《ばか》に身を任せて山に籠《こも》ってからは神変不思議、年を経《ふ》るに従うて神通《じんつう》自在じゃ。はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果《はて》は間を隔《へだ》てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸《いき》で変ずるわ。
 と親仁《おやじ》がその時物語って、ご坊は、孤家《ひとつや》の周囲《ぐるり》で、猿を見たろう、蟇《ひき》を見たろう、蝙蝠《こうもり》を見たであろう、兎《うさぎ》も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生《ちくしょう》にされたる輩《やから》!
 あわれあの時あの婦人《おんな》が、蟇に絡《まつわ》られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎《ちみもうりょう》に魘《おそ》われたのも、思い出して、私《わし》はひしひしと胸に当った。
 なお親仁《おやじ》のいうよう。
 今の白痴《ばか》も、件《くだん》の評判の高かった頃、医者の内《うち》へ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥《ぼくとつ》な父親が附添《つきそ》い、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。脚に難渋《なんじゅう》な腫物《はれもの》があった、その療治《りょうじ》を頼んだので。
 もとより一室《ひとま》を借受けて、逗留《とうりゅう》をしておったが、かほどの悩《なやみ》は大事《おおごと》じゃ、血も大分《だいぶん》に出さねばならぬ、殊《こと》に子供、手を下《おろ》すには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵《たまご》を飲まして、気休めに膏薬《こうやく》を貼《は》っておく。
 その膏薬を剥《は》がすにも親や兄、また傍《そば》のものが手を懸けると、堅《かた》くなって硬《こわ》ばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙《だま》って耐《こら》えた。
 一体は医者殿、手のつけようがなくって身の衰《おとろえ》をいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日|経《た》つと、兄を残して、克明《こくめい》な父親《てておや》は股引の膝《ひざ》でずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋《わらじ》を穿《は》いてまた地《つち》に手をついて、次男坊の生命《いのち》の扶《たす》かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。
 それでもなかなか捗取《はかど》らず、七日《なぬか》も経ったので、後《あと》に残って附添っていた兄者人《あにじゃびと》が、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど忙《いそが》しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠《やまばたけ》にかけがえのない、稲が腐《くさ》っては、餓死《うえじに》でござりまする、総領の私《わし》は、一番の働手《はたらきて》、こうしてはおられませぬから、と辞《ことわり》をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。
 後には子供一人、その時が、戸長様《こちょうさま》の帳面前|年紀《とし》六ツ、親六十で児《こ》が二十《はたち》なら徴兵《ちょうへい》はお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も碌《ろく》には知らぬが、怜悧《りこう》な生れで聞分《ききわけ》があるから、三ツずつあいかわらず鶏卵《たまご》を吸わせられる汁《つゆ》も、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを掻《か》いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。
 娘の情《なさけ》で内と一所に膳《ぜん》を並べて食事をさせると、沢庵《たくあん》の切《きれ》をくわえて隅《すみ》の方へ引込《ひきこ》むいじらしさ。
 いよいよ明日《あす》が手術という夜は、皆寐静《みんなねしず》まってから、しくしく蚊《か》のように泣いているのを、手水《ちょうず》に起きた娘が見つけてあまり不便《ふびん》さに抱いて寝てやった。
 さて治療《りょうじ》となると例のごとく娘が背後《うしろ》から抱いていたから、脂汗《あぶらあせ》を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、危《あぶな》くなった。
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