息を凝《こら》すと、納戸で、
(うむ、)といって長く呼吸《いき》を引いて一声《ひとこえ》、魘《うなさ》れたのは婦人《おんな》じゃ。
(今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。
(お客様があるじゃないか。)
 としばらく経って二度目のははっきりと清《すず》しい声。
 極めて低声《こごえ》で、
(お客様があるよ。)といって寝返る音がした、更《さら》に寝返る音がした。
 戸の外のものの気勢《けはい》は動揺《どよめき》を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺《ゆらめ》いた。
 私《わし》は陀羅尼《だらに》を呪《じゅ》した。
  若不順我呪《にゃくふじゅんがしゅ》 悩乱説法者《のうらんせっぽうじゃ》
  頭破作七分《ずはさしちぶん》 如阿梨樹枝《にょありじゅし》
  如殺父母罪《にょしぶもざい》 亦如厭油殃《やくにょおうゆおう》
  斗秤欺誑人《としょうごおうにん》 調達破僧罪《じょうだつはそうざい》
  犯此法師者《ほんしほっししゃ》 当獲如是殃《とうぎゃくにょぜおう》
 と一心不乱、さっと木の葉を捲《ま》いて風が南《みんなみ》へ吹いたが、たちまち静《しずま》り返った、夫婦が閨《ねや》もひッそりした。」

     二十四

「翌日また正午頃《ひるごろ》、里近く、滝のある処で、昨日《きのう》馬を売りに行った親仁《おやじ》の帰りに逢《お》うた。
 ちょうど私《わし》が修行に出るのを止《よ》して孤家《ひとつや》に引返して、婦人《おんな》と一所《いっしょ》に生涯《しょうがい》を送ろうと思っていたところで。
 実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸《さいわい》になし、蛭《ひる》の林もなかったが、道が難渋《なんじゅう》なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚《いまさらあんぎゃ》もつまらない。紫《むらさき》の袈裟《けさ》をかけて、七堂伽藍《しちどうがらん》に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様《いきぼとけさま》じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。
 ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜《ゆうべ》も白痴《ばか》を寐《ね》かしつけると、婦人《おんな》がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流《ながれ》に一所に私《わたし》の傍《そば》においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅《さ》したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳《いいわけ》が出来るというのは、しきりに婦人《おんな》が不便《ふびん》でならぬ、深山《みやま》の孤家《ひとつや》に白痴《ばか》の伽《とぎ》をして言葉も通ぜず、日を経《ふ》るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!
 殊《こと》に今朝《けさ》も東雲《しののめ》に袂《たもと》を振り切って別れようとすると、お名残惜《なごりお》しや、かような処にこうやって老朽《おいく》ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃《しろもも》の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄《しお》れながら、なお深切《しんせつ》に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍《おど》って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家《ひとつや》の見えなくなった辺《あたり》で、指《ゆびさ》しをしてくれた。
 その手と手を取交《とりかわ》すには及ばずとも、傍《そば》につき添《そ》って、朝夕の話対手《はなしあいて》、蕈《きのこ》の汁でご膳《ぜん》を食べたり、私《わし》が榾《ほだ》を焚《た》いて、婦人《おんな》が鍋《なべ》をかけて、私《わし》が木《こ》の実《み》を拾って、婦人《おんな》が皮を剥《む》いて、それから障子《しょうじ》の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人《おんな》が裸体《はだか》になって私《わし》が背中へ呼吸《いき》が通《かよ》って、微妙《びみょう》な薫《かおり》の花びらに暖《あたたか》に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!
 滝の水を見るにつけても耐《た》え難《がた》いのはその事であった、いや、冷汗《ひやあせ》が流れますて。
 その上、もう気がたるみ、筋《すじ》が弛《ゆる》んで、早《は》や歩行《ある》くのに飽《あ》きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭《くさ》い婆《ばあ》さんに渋茶を振舞《ふるま》われるのが関の山と、里へ入るのも厭《いや》になったから、石の上へ膝《ひざ》を懸《か》けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後《のち》に聞くと女夫滝《
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