も差俯向《さしうつむ》く。
 いや、行燈《あんどう》がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴《ばか》のせいじゃて。
 その時よ。
 座が白けて、しばらく言葉が途絶《とだ》えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫《たゆう》、退屈《たいくつ》をしたとみえて、顔の前の行燈《あんどう》を吸い込むような大欠伸《おおあくび》をしたから。
 身動きをしてな、
(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱《もちあつか》うわい。
(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが坐《すわ》り直ってふと気がついたように四辺《あたり》を※[#「目」+「句」 161−12]《みまわ》した。戸外《おもて》はあたかも真昼のよう、月の光は開《あ》け拡《ひろ》げた家《や》の内《うち》へはらはらとさして、紫陽花《あじさい》の色も鮮麗《あざやか》に蒼《あお》かった。
(貴僧《あなた》ももうお休みなさいますか。)
(はい、ご厄介《やっかい》にあいなりまする。)
(まあ、いま宿《やど》を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外《おもて》へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜《けっくよ》うございましょう、私《わたし》どもは納戸《なんど》へ臥《ふ》せりますから、貴僧《あなた》はここへお広くお寛《くつろ》ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌《かっばつ》であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項《うなじ》へ崩《くず》れた。
 鬢《びん》をおさえて戸につかまって、戸外《おもて》を透《すか》したが、独言《ひとりごと》をした。
(おやおやさっきの騒《さわ》ぎで櫛《くし》を落したそうな。)
 いかさま馬の腹を潜《くぐ》った時じゃ。」

     二十三

 この折から下の廊下《ろうか》に跫音《あしおと》がして、静《しずか》に大跨《おおまた》に歩行《ある》いたのが、寂《せき》としているからよく。
 やがて小用《こよう》を達《た》した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢《ちょうずばち》へ柄杓《ひしゃく》の響《ひびき》。
「おお、積《つも》った、積った。」と呟《つぶや》いたのは、旅籠屋《はたごや》の亭主の声である。
「ほほう、この若狭《わかさ》の商人《あきんど》はどこかへ泊ったと見える、何か愉快《おもしろ》い夢でも見ているかな。」
「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが牴牾《もどか》しく、膠《にべ》もなく続きを促《うなが》した。
「さて、夜も更《ふ》けました、」といって旅僧《たびそう》はまた語出《かたりだ》した。
「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥《くたび》れておっても申上げたような深山《みやま》の孤家《ひとつや》で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内|私《わし》を寝かさなかった事もあるし、目は冴《さ》えて、まじまじしていたが、さすがに、疲《つかれ》が酷《ひど》いから、心《しん》は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠《まちどお》でならぬ。
 そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経《た》ったものをと、怪《あや》しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。
 その時は早や、夜がものに譬《たと》えると谷の底じゃ、白痴《ばか》がだらしのない寐息《ねいき》も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢《けはい》がしてきた。
 獣《けもの》の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行《ある》いて来たのではないよう、猿も、蟇《ひき》も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。
 しばらくすると今そやつが正面の戸に近《ちかづ》いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。
 私はその方を枕《まくら》にしていたのじゃから、つまり枕頭《まくらもと》の戸外《おもて》じゃな。しばらくすると、右手《めて》のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。
 むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟《むね》へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取《けど》られるのが胸を圧《お》すほどに近《ちかづ》いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方《かなた》からひたひたと小刻《こきざみ》に駈《か》けて来るのは、二本足に草鞋《わらじ》を穿《は》いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家《うち》のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁《ささや》いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道《ちくしょうどう》の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎《ちみもうりょう》というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦《そよ》ぐ気色《けしき》だった。

前へ 次へ
全26ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング