何でございますね、あとでお食《あが》んなさい、お客様じゃあありませんか。)
白痴《ばか》は情ない顔をして口を曲《ゆが》めながら頭《かぶり》を掉《ふ》った。
(厭《いや》? しょうがありませんね、それじゃご一所《いっしょ》に召しあがれ。貴僧《あなた》、ご免《めん》を蒙《こうむ》りますよ。)
私《わし》は思わず箸《はし》を置いて、
(さあどうぞお構いなく、とんだご雑作《ぞうさ》を頂きます。)
(いえ、何の貴僧《あなた》。お前さん後《のち》ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ愛想《あいそ》、手早くおなじような膳を拵《こしら》えてならべて出した。
飯のつけようも効々《かいがい》しい女房《にょうぼう》ぶり、しかも何となく奥床《おくゆか》しい、上品な、高家《こうけ》の風がある。
白痴《あほう》はどんよりした目をあげて膳の上を睨《ね》めていたが、
(あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと四辺《あたり》を※[#「目」+「句」 154−6]《みまわ》す。
婦人《おんな》はじっと瞻《みまも》って、
(まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹を揺《ゆす》ったが、べそを掻《か》いて泣出しそう。
婦人《おんな》は困《こう》じ果てたらしい、傍《かたわら》のものの気の毒さ。
(嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。私《わたくし》にお気遣《きづかい》はかえって心苦しゅうござります。)と慇懃《いんぎん》にいうた。
婦人《おんな》はまたもう一度、
(厭かい、これでは悪いのかい。)
白痴《ばか》が泣出しそうにすると、さも怨《うら》めしげに流眄《ながしめ》に見ながら、こわれごわれになった戸棚《とだな》の中から、鉢《はち》に入ったのを取り出して手早く白痴《ばか》の膳につけた。
(はい。)と故《わざ》とらしく、すねたようにいって笑顔造《えがおづくり》。
はてさて迷惑《めいわく》な、こりゃ目の前で黄色蛇《あおだいしょう》の旨煮《うまに》か、腹籠《はらごもり》の猿の蒸焼《むしやき》か、災難が軽うても、赤蛙《あかがえる》の干物《ひもの》を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀《わん》を持ちながら掴出《つかみだ》したのは老沢庵《ひねたくあん》。
それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太《にぎりぶと》なのを横銜《よこぐわ》えにしてやらかすのじゃ。
婦人《おんな》はよくよくあしらいかねたか、盗《ぬす》むように私《わし》を見てさっと顔を赭《あか》らめて初心らしい、そんな質《たち》ではあるまいに、羞《はず》かしげに膝《ひざ》なる手拭《てぬぐい》の端《はし》を口にあてた。
なるほどこの少年はこれであろう、身体《からだ》は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食《えじき》を平《たい》らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀《たいぎ》そうに呼吸《いき》を向うへ吐《つ》くわさ。
(何でございますか、私は胸に支《つか》えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後《のち》ほどに頂きましょう、)
と婦人《おんな》自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」
二十一
「しばらくしょんぼりしていたっけ。
(貴僧《あなた》、さぞお疲労《つかれ》、すぐにお休ませ申しましょうか。)
(難有《ありがと》う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥《くたびれ》もすっかり復《なお》りました。)
(あの流れはどんな病にでもよく利きます、私《わたし》が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽《か》れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕《がけ》も残らず雪になりましても、貴僧《あなた》が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠《かく》れません、そうしていきりが立ちます。
鉄砲疵《てっぽうきず》のございます猿だの、貴僧《あなた》、足を折った五位鷺《ごいさぎ》、種々《いろいろ》なものが浴《ゆあ》みに参りますからその足跡《あしあと》で崕《がけ》の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。
そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂《さび》しくってなりません、本当《ほんと》にお愧《はずか》しゅうございますが、こんな山の中に引籠《ひっこも》っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。
貴僧《あなた》、それでもお眠ければご遠慮《えんりょ》なさいますなえ。別にお寝室《ねま》と申してもございませんがその代り蚊《か》
前へ
次へ
全26ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング