と、婦人《おんな》は、匙《さじ》を投げて衣《きもの》の塵《ちり》を払うている馬の前足の下に小さな親仁《おやじ》を見向いて、
(しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端《かたはし》が土へ引こうとするのを、掻取《かいと》ってちょいと猶予《ためら》う。
(ああ、ああ。)と濁《にご》った声を出して白痴《ばか》が件《くだん》のひょろりとした手を差向《さしむ》けたので、婦人《おんな》は解いたのを渡してやると、風呂敷《ふろしき》を寛《ひろ》げたような、他愛《たわい》のない、力のない、膝《ひざ》の上へわがねて宝物《ほうもつ》を守護するようじゃ。
婦人《おんな》は衣紋《えもん》を抱き合せ、乳の下でおさえながら静《しずか》に土間を出て馬の傍《わき》へつつと寄った。
私《わし》はただ呆気《あっけ》に取られて見ていると、爪立《つまだち》をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度|鬣《たてがみ》を撫《な》でたが。
大きな鼻頭《はなづら》の正面にすっくりと立った。丈《せい》もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人《おんな》は目を据《す》え、口を結び、眉《まゆ》を開いて恍惚《うっとり》となった有様《ありさま》、愛嬌《あいきょう》も嬌態《しな》も、世話らしい打解《うちと》けた風はとみに失《う》せて、神か、魔《ま》かと思われる。
その時裏の山、向うの峰《みね》、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴《くちばし》を向け、頭《かしら》を擡《もた》げて、この一落《いちらく》の別天地、親仁《おやじ》を下手《しもて》に控え、馬に面して彳《たたず》んだ月下の美女の姿を差覗《さしのぞ》くがごとく、陰々《いんいん》として深山《みやま》の気が籠《こも》って来た。
生《なま》ぬるい風のような気勢《けはい》がすると思うと、左の肩から片膚《かたはだ》を脱いだが、右の手を脱《はず》して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣《ひとえ》を円《まる》げて持ち、霞《かすみ》も絡《まと》わぬ姿になった。
馬は背《せな》、腹の皮を弛《ゆる》めて汗もしとどに流れんばかり、突張《つッぱ》った脚もなよなよとして身震《みぶるい》をしたが、鼻面《はなづら》を地につけて一掴《ひとつかみ》の白泡《しろあわ》を吹出《ふきだ》したと思うと前足を折ろうとする。
その時、頤《あぎと》の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽《おお》うが否や、兎《うさぎ》は躍《おど》って、仰向《あおむ》けざまに身を翻《ひるがえ》し、妖気《ようき》を籠《こ》めて朦朧《もうろう》とした月あかりに、前足の間に膚《はだ》が挟《はさま》ったと思うと、衣《きぬ》を脱して掻取《かいと》りながら下腹をつと潜《くぐ》って横に抜けて出た。
親仁《おやじ》は差心得《さしこころえ》たものと見える、この機《きっ》かけに手綱《たづな》を引いたから、馬はすたすたと健脚《けんきゃく》を山路《やまじ》に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間《ま》に眼界を遠ざかる。
婦人《おんな》は早や衣服《きもの》を引《ひっ》かけて縁側《えんがわ》へ入って来て、突然《いきなり》帯を取ろうとすると、白痴《ばか》は惜《お》しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人《おんな》の胸を圧《おさ》えようとした。
邪慳《じゃけん》に払い退《の》けて、きっと睨《にら》んで見せると、そのままがっくりと頭《こうべ》を垂れた、すべての光景は行燈《あんどう》の火も幽《かすか》に幻《まぼろし》のように見えたが、炉にくべた柴《しば》がひらひらと炎先《ほさき》を立てたので、婦人《おんな》はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり遥《はるか》に馬子歌《まごうた》が聞えたて。」
二十
「さて、それからご飯の時じゃ、膳《ぜん》には山家《やまが》の香《こう》の物、生姜《はじかみ》の漬《つ》けたのと、わかめを茹《う》でたの、塩漬の名も知らぬ蕈《きのこ》の味噌汁《みそしる》、いやなかなか人参《にんじん》と干瓢《かんぴょう》どころではござらぬ。
品物は侘《わび》しいが、なかなかのお手料理、餓《う》えてはいるし、冥加至極《みょうがしごく》なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱《ひじ》をついて、頬《ほお》を支えながら、嬉《うれ》しそうに見ていたわ。
縁側に居た白痴《ばか》は誰《たれ》も取合《とりあわ》ぬ徒然《つれづれ》に堪《た》えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出《いざりだ》して、婦人《おんな》の傍《そば》へその便々《べんべん》たる腹を持って来たが、崩《くず》れたように胡坐《あぐら》して、しきりにこう我が膳を視《なが》めて、指《ゆびさし》をした。
(うううう、うううう。)
(
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