、それなりさらさらと木登《きのぼり》をしたのは、何と猿《さる》じゃあるまいか。
 枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢《こずえ》まで、かさかさがさり。
 まばらに葉の中を透《すか》して月は山の端《は》を放れた、その梢のあたり。
 婦人《おんな》はものに拗《す》ねたよう、今の悪戯《いたずら》、いや、毎々、蟇《ひき》と蝙蝠《こうもり》と、お猿で三度じゃ。
 その悪戯に多《いた》く機嫌《きげん》を損《そこ》ねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様《おふくろ》には得《え》てある図じゃ。
 本当に怒り出す。
 といった風情《ふぜい》で面倒臭《めんどうくさ》そうに衣服《きもの》を着ていたから、私《わし》は何にも問わずに小さくなって黙って控《ひか》えた。」

     十七

「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々《なれなれ》しくて犯し易《やす》からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応《こたえ》のあるといったような風の婦人《おんな》、かく嬌瞋《きょうしん》を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人《おんな》に邪慳《じゃけん》にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産《うむ》が安い。
(貴僧《あなた》、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑《ほほえ》みながら、
(しようがないのでございますよ。)
 以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、
(それでは家《うち》へ帰りましょう。)と米磨桶《こめとぎおけ》を小腋《こわき》にして、草履《ぞうり》を引《ひっ》かけてつと崖《がけ》へ上《のぼ》った。
(お危《あぶの》うござんすから。)
(いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)
 ずッと心得《こころえ》た意《つもり》じゃったが、さて上《あが》る時見ると思いの外《ほか》上までは大層高い。
 やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗《うろこ》のようで、譬《たとえ》にもよくいうが松の木は蝮《うわばみ》に似ているで。
 殊《こと》に崖を、上の方へ、いい塩梅《あんばい》に蜿《うね》った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中《どうなか》の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然《ありあり》とそれ。
 山路の時を思い出すと我ながら足が竦《すく》む。
 婦人《おんな》は深切に後《うしろ》を気遣《きづこ》うては気を付けてくれる。
(それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻《ま》うと悪うござんす。)
(はい。)
 愚図愚図《ぐずぐず》してはいられぬから、我身《わがみ》を笑いつけて、まず乗った。引《ひっ》かかるよう、刻《きざ》が入れてあるのじゃから、気さえ確《たしか》なら足駄《あしだ》でも歩行《ある》かれる。
 それがさ、一件じゃから耐《たま》らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這《は》いそうじゃから、わっというと引跨《ひんまた》いで腰をどさり。
(ああ、意気地《いくじ》はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿《は》き換《か》えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯《き》くんですよ。)
 私《わし》はそのさっきから何《な》んとなくこの婦人《おんな》に畏敬《いけい》の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。
 するとお聞きなさい、婦人《おんな》は足駄を穿きながら手を取ってくれます。
 たちまち身が軽くなったように覚えて、訳《わけ》なく後《うしろ》に従って、ひょいとあの孤家《ひとつや》の背戸《せど》の端《はた》へ出た。
 出会頭《であいがしら》に声を懸《か》けたものがある。
(やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧《ぼうさまもと》の体で帰らっしゃったの。)
(何をいうんだね、小父様家《おじさんうち》の番はどうおしだ。)
(もういい時分じゃ、また私《わし》も余《あんま》り遅《おそ》うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度《したく》しておこうと思うてよ。)
(それはお待遠《まちどお》でござんした。)
(何さ、行ってみさっしゃいご亭主《ていしゅ》は無事じゃ、いやなかなか私《わし》が手には口説《くどき》落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを大笑《おおわらい》して、親仁《おやじ》は厩《うまや》の方へてくてくと行った。
 白痴《ばか》はおなじ処になお形を存している、海月《くらげ》も日にあたらねば解けぬとみえる。」

     十八

「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸
前へ 次へ
全26ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング