ぬ話じゃ、ここらから一番|野面《のづら》で遣《やっ》つけよう。」
枕《まくら》を並べた上人の姿も朧《おぼろ》げに明《あかり》は暗くなっていた、早速|燈心《とうしん》を明くすると、上人は微笑《ほほえ》みながら続けたのである。
「さあ、そうやっていつの間にやら現《うつつ》とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖《あったか》い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸《えり》から次第《しだい》に天窓《あたま》まで一面に被《かぶ》ったから吃驚《びっくり》、石に尻餅《しりもち》を搗《つ》いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後《うしろ》から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。
(貴僧《あなた》、お傍《そば》に居て汗臭《あせくそ》うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)という胸にある手を取ったのを、慌《あわ》てて放して棒のように立った。
(失礼、)
(いいえ誰も見ておりはしませんよ。)と澄《すま》して言う、婦人《おんな》もいつの間にか衣服《きもの》を脱いで全身を練絹《ねりぎぬ》のように露《あらわ》していたのじゃ。
何と驚《おどろ》くまいことか。
(こんなに太っておりますから、もうお愧《はずか》しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧《あなた》、お手拭《てぬぐい》。)といって絞《しぼ》ったのを寄越《よこ》した。
(それでおみ足をお拭《ふ》きなさいまし。)
いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐《おそれ》多いが、はははははは。」
十六
「なるほど見たところ、衣服《きもの》を着た時の姿とは違《ちご》うて肉《しし》つきの豊な、ふっくりとした膚《はだえ》。
(さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)
と姉弟《きょうだい》が内端話《うちわばなし》をするような調子。手をあげて黒髪をおさえながら腋《わき》の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅《うすくれない》になって流れよう。
ちょいちょいと櫛《くし》を入れて、
(まあ、女がこんなお転婆《てんば》をいたしまして、川へ落《おっ》こちたらどうしましょう、川下《かわしも》へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
(白桃《しろもも》の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
すると、さも嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》してその時だけは初々《ういうい》しゅう年紀《とし》も七ツ八ツ若やぐばかり、処女《きむすめ》の羞《はじ》を含《ふく》んで下を向いた。
私《わし》はそのまま目を外《そ》らしたが、その一段の婦人《おんな》の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の※[#「さんずい」に 散 140−10]《しぶき》に濡《ぬ》れて黒い、滑《なめら》かな大きな石へ蒼味《あおみ》を帯びて透通《すきとお》って映るように見えた。
するとね、夜目で判然《はっきり》とは目に入《い》らなんだが地体《じたい》何でも洞穴《ほらあな》があるとみえる。ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠《おおこうもり》が目を遮《さえぎ》った。
(あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)
不意を打たれたように叫んで身悶《みもだ》えをしたのは婦人《おんな》。
(どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣《ころも》を着たから気丈夫《きじょうぶ》に尋《たず》ねる。
(いいえ、)
といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向《うしろむき》になった。
その時小犬ほどな鼠色《ねずみいろ》の小坊主《こぼうず》が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖《がけ》から横に宙をひょいと、背後《うしろ》から婦人《おんな》の背中へぴったり。
裸体《はだか》の立姿は腰から消えたようになって、抱《だき》ついたものがある。
(畜生《ちくしょう》、お客様が見えないかい。)
と声に怒《いかり》を帯びたが、
(お前達は生意気《なまいき》だよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗《のぞ》こうとした件《くだん》の動物の天窓《あたま》を振返《ふりかえ》りさまにくらわしたで。
キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛《うしろと》びにまた宙を飛んで、今まで法衣《ころも》をかけておいた、枝の尖《さき》へ長い手で釣《つる》し下《さが》ったと思うと、くるりと釣瓶覆《つるべがえし》に上へ乗って
前へ
次へ
全26ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング