方《しかた》がないから又《また》言葉《ことば》をかけたが少《すこ》しも通《つう》ぜず、ばたりといふと僅《わづか》に首《くび》の位置《ゐち》をかへて今度《こんど》は左《ひだり》の肩《かた》を枕《まくら》にした、口《くち》の開《あ》いてること旧《もと》の如《ごと》し。
 恁《かう》云《い》ふのは、悪《わる》くすると突然《いきなり》ふんづかまへて臍《へそ》を捻《ひね》りながら返事《へんじ》のかはりに嘗《な》めやうも知《し》れぬ。
 私《わし》は一|足《あし》退《すさ》つたがいかに深山《しんざん》だといつても是《これ》を一人《ひとり》で置《お》くといふ法《はふ》はあるまい、と足《あし》を爪立《つまだ》てゝ少《すこ》し声高《こはだか》に、
(何方《どなた》ぞ、御免《ごめん》なさい、)といつた。
 背戸《せど》と思《おも》ふあたりで再《ふたゝ》び馬《うま》の嘶《いなゝ》く声《こゑ》。
(何方《どなた》、)と納戸《なんど》の方《はう》でいつたのは女《をんな》ぢやから、南無三宝《なむさんばう》、此《こ》の白《しろ》い首《くび》には鱗《うろこ》が生《は》へて、体《からだ》は床《ゆか》を這《は》つて尾《を》をずる/″\と引《ひ》いて出《で》やうと、又《また》退《すさ》つた。
(おゝ、御坊様《おばうさま》、)と立顕《たちあら》はれたのは小造《こづくり》の美《うつく》しい、声《こゑ》も清《すゞ》しい、ものやさしい。
 私《わし》は大息《おほいき》を吐《つ》いて、何《なん》にもいはず、
(はい。)と頭《つむり》を下《さ》げましたよ。
 婦人《をんな》は膝《ひざ》をついて坐《すわ》つたが、前《まへ》へ伸上《のびあが》るやうにして黄昏《たそがれ》にしよんぼり立《た》つた私《わし》が姿《すがた》を透《す》かし見《み》て、(何《なに》か用《よう》でござんすかい。)
 休《やす》めともいはずはじめから宿《やど》の常世《つねよ》は留主《るす》らしい、人《ひと》を泊《と》めないと極《き》めたものゝやうに見《み》える。
 いひ後《おく》れては却《かへ》つて出《で》そびれて頼《たの》むにも頼《たの》まれぬ仕誼《しぎ》にもなることゝ、つか/\と前《まへ》へ出《で》た。丁寧《ていねい》に腰《こし》を屈《かゞ》めて、
(私《わし》は、山越《やまごえ》で信州《しんしう》へ参《まゐ》ります者《もの》ですが旅籠《はたご》のございます処《ところ》までは未《ま》だ何《ど》の位《くらゐ》ございませう。)」

         第十一

「(貴方《あなた》まだ八|里《り》余《あまり》でございますよ。)
(其他《そのほか》に別《べつ》に泊《と》めてくれます家《うち》もないのでせうか。)
(其《それ》はございません。)といひながら目《め》たゝきもしないで清《すゞ》しい目《め》で私《わし》の顔《かほ》をつく/″\見《み》て居《ゐ》た。
(いえもう何《なん》でございます、実《じつ》は此先《このさき》一|町《ちやう》行《ゆ》け、然《さ》うすれば上段《じやうだん》の室《へや》に寝《ね》かして一|晩《ばん》扇《あふ》いで居《ゐ》て其《それ》で功徳《くどく》のためにする家《うち》があると承《うけたまは》りましても、全《まツた》くの処《ところ》一|足《あし》も歩行《ある》けますのではございません、何処《どこ》の物置《ものおき》でも馬小屋《うまごや》の隅《すみ》でも宜《よ》いのでございますから後生《ごしやう》でございます。)と前刻《さツき》馬《うま》の嘶《いなゝ》いたのは此家《こゝ》より外《ほか》にはないと思《おも》つたから言《い》つた。
 婦人《をんな》は暫《しばら》く考《かんが》へて居《ゐ》たが、弗《ふ》と傍《わき》を向《む》いて布《ぬの》の袋《ふくろ》を取《と》つて、膝《ひざ》のあたりに置《お》いた桶《をけ》の中《なか》へざら/\と一|巾《はゞ》、水《みづ》を溢《こぼ》すやうにあけて縁《ふち》をおさへて、手《て》で掬《すく》つて俯向《うつむ》いて見《み》たが、
(あゝ、お泊《と》め申《まを》しましやう、丁度《ちやうど》炊《た》いてあげますほどお米《こめ》もございますから、其《それ》に夏《なつ》のことで、山家《やまが》は冷《ひ》えましても夜《よる》のものに御不自由《ごふじいう》もござんすまい。さあ、左《と》も右《かく》もあなたお上《あが》り遊《あそ》ばして。)
といふと言葉《ことば》の切《き》れぬ先《さき》にどつかり腰《こし》を落《おと》した。婦人《をんな》は衝《つ》と身《み》を起《おこ》して立《た》つて来《き》て、
(御坊様《おばうさま》、それでござんすが一寸《ちよつと》お断《ことは》り申《まを》して置《お》かねばなりません。)
 判然《はツきり》いはれたので私《わし》はびく/\もので、
(唯《はい》、
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