丈《ぢやう》余《よ》、段々《だん/″\》と草《くさ》の動《うご》くのが広《ひろ》がつて、傍《かたへ》の谷《たに》へ一|文字《もんじ》に颯《さツ》と靡《なび》いた、果《はて》は峯《みね》も山《やま》も一|斉《せい》に揺《ゆる》いだ、悚毛《おぞけ》を震《ふる》つて立窘《たちすく》むと涼《すゞ》しさが身《み》に染《し》みて気《き》が着《つ》くと山颪《やまおろし》よ。
 此《こ》の折《をり》から聞《きこ》えはじめたのは哄《どツ》といふ山彦《やまひこ》に伝《つた》はる響《ひゞき》、丁度《ちやうど》山《やま》の奥《おく》に風《かぜ》が渦巻《うづま》いて其処《そこ》から吹起《ふきおこ》る穴《あな》があいたやうに感《かん》じられる。
 何《なに》しろ山霊《さんれい》感応《かんおう》あつたか、蛇《へび》は見《み》えなくなり暑《あつ》さも凌《しの》ぎよくなつたので気《き》も勇《いさ》み足《あし》も捗取《はかど》つたが程《ほど》なく急《きふ》に風《かぜ》が冷《つめ》たくなつた理由《りいう》を会得《ゑとく》することが出来《でき》た。
 といふのは目《め》の前《まへ》に大森林《だいしんりん》があらはれたので。
 世《よ》の譬《たとへ》にも天生峠《あまふたうげ》は蒼空《あをぞら》に雨《あめ》が降《ふ》るといふ人《ひと》の話《はなし》にも神代《じんだい》から杣《そま》が手《て》を入《い》れぬ森《もり》があると聞《き》いたのに、今《いま》までは余《あま》り樹《き》がなさ過《す》ぎた。
 今度《こんど》は蛇《へび》のかはりに蟹《かに》が歩《ある》きさうで草鞋《わらぢ》が冷《ひ》えた。暫《しばら》くすると暗《くら》くなつた、杉《すぎ》、松《まつ》、榎《えのき》と処々《ところ/″\》見分《みわ》けが出来《でき》るばかりに遠《とほ》い処《ところ》から幽《かすか》に日《ひ》の光《ひかり》の射《さ》すあたりでは、土《つち》の色《いろ》が皆《みな》黒《くろ》い。中《なか》には光線《くわうせん》が森《もり》を射通《いとほ》す工合《ぐあひ》であらう、青《あを》だの、赤《あか》だの、ひだが入《い》つて美《うつく》しい処《ところ》があつた。
 時々《とき/″\》爪尖《つまさき》に絡《から》まるのは葉《は》の雫《しづく》の落溜《おちたま》つた糸《いと》のやうな流《ながれ》で、これは枝《えだ》を打《う》つて高《たか》い処《ところ》を走《はし》るので。ともすると又《また》常盤木《ときはぎ》が落葉《おちば》する、何《なん》の樹《き》とも知《し》れずばら/″\と鳴《な》り、かさかさと音《おと》がしてぱつと檜笠《ひのきがさ》にかゝることもある、或《あるひ》は行過《ゆきす》ぎた背後《うしろ》へこぼれるのもある、其等《それら》は枝《えだ》から枝《えだ》に溜《たま》つて居《ゐ》て何十年《なんじうねん》ぶりではじめて地《つち》の上《うへ》まで落《おち》るのか分《わか》らぬ。」

         第八

「心細《こゝろぼそ》さは申《もを》すまでもなかつたが、卑怯《ひけふ》な様《やう》でも修業《しゆげふ》の積《つ》まぬ身《み》には、恁云《かうい》ふ暗《くら》い処《ところ》の方《はう》が却《かへ》つて観念《くわんねん》に便《たより》が宜《よ》い。何《なに》しろ体《からだ》が凌《しの》ぎよくなつたゝめに足《あし》の弱《よわり》も忘《わす》れたので、道《みち》も大《おほ》きに捗取《はかど》つて、先《ま》づこれで七|分《ぶ》は森《もり》の中《なか》を越《こ》したらうと思《おも》ふ処《ところ》で、五六|尺《しやく》天窓《あたま》の上《うへ》らしかつた樹《き》の枝《えだ》から、ぼたりと笠《かさ》の上《うへ》へ落《お》ち留《と》まつたものがある。
 鉛《なまり》の重《おもり》かとおもふ心持《こゝろもち》、何《なに》か木《き》の実《み》でゞもあるか知《し》らんと、二三|度《ど》振《ふつ》て見《み》たが附着《くツつ》いて居《ゐ》て其《その》まゝには取《と》れないから、何心《なにごゝろ》なく手《て》をやつて掴《つか》むと、滑《なめ》らかに冷《ひや》りと来《き》た。
 見《み》ると海鼠《なまこ》を裂《さい》たやうな目《め》も口《くち》もない者《もの》ぢやが、動物《どうぶつ》には違《ちが》ひない。不気味《ぶきみ》で投出《なげだ》さうとするとずる/″\と辷《すべ》つて指《ゆび》の尖《さき》へ吸《すひ》ついてぶらりと下《さが》つた其《そ》の放《はな》れた指《ゆび》の尖《さき》から真赤《まつか》な美《うつく》しい血《ち》が垂々《たら/\》と出《で》たから、吃驚《びツくり》して目《め》の下《した》へ指《ゆび》をつけてじつと見《み》ると、今《いま》折曲《をりま》げた肱《ひぢ》の処《ところ》へつるりと垂懸《たれかゝ》つて居《ゐ》るのは同
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