「おや/\、塔婆《とうば》も一本、流れ灌頂《かんちょう》と云ふ奴だ。……大変なものに乗せるんだな。」
 座長が真《まっ》さきにのりかゝつて、ぎよつとした。三艘《さんぞう》のうちの、一番|大形《おおがた》に見える真中の船であつた。
 が、船《ふな》べりを舐《な》めて這《は》ふやうに、船頭がかんてらを入れたのは、端の方の古船《ふるぶね》で。
「旦那《だんな》、此方《こっち》だよ。……へい、其《それ》は流れ灌頂ではござりましねえ。昨日《きのう》、盂蘭盆《うらぼん》で川施餓鬼《かわせがき》がござりましたでや。」
「流れ灌頂と兄弟分だ。」
「可厭《いや》だわねえ。」
「一蓮托生《いちれんたくしょう》と、さあ、皆《みんな》乗つたか。」
 と座長が捌《さば》く。
「小父《おじ》さん、船幽霊《ふなゆうれい》は出ないこと。」
 と若い女が、ぢやぶ/\、ぢやぶ/\と乗出《のりだ》す中に、怯《おび》えた声する。
 兀《は》げたのだらう。月に青道心《あおどうしん》のやうで、さつきから黙《だんま》り家《や》の老人《としより》が、
「船幽霊は大海《だいかい》のものだ。潟《かた》にはねえなあ。」
「あれば生擒《いけど》つて銭儲《ぜにもう》けだ。」
 ぎい、ちよん、ぎい、ちよんと、堤《どて》の草に蟋蟀《きりぎりす》の紛れて鳴くのが、やがて分れて、大川に唯《ただ》艪《ろ》の音のみ、ぎい、と響く。ぎよ、ぎよツと鳴くのは五位鷺《ごいさぎ》だらう。
「なむあみだぶつ。あゝ、いゝ月だ。」
 と寂《さび》しく掉《ふ》つた、青道心の爺《じじい》の頭は、ぶくりと白茄子《しろなす》が浮いたやうで、川幅は左右へ展《ひら》け、船は霧に包まれた。
「変な、月のほめやうだな、はゝゝ。」
 と座長は笑ひ消しつつ、
「おい、姉《ねえ》や、何《ど》うした。」
 と言ふ。水しやくひの娘は、剥《む》いた玉子《たまご》を包みあへぬ、あせた緋金巾《ひがなきん》を掻合《かきあわ》せて、鵜《う》が赤い魚《うお》を銜《くわ》へたやうに、舳《みよし》にとぼんと留《とま》つて薄黒い。通例だと卑下をしても、あとから乗つて艫《とも》の方にあるべき筈《はず》を、勝手を知つた土地のものの所為《せい》だらう。出《で》しなに、川施餓鬼《かわせがき》で迷つた時、船頭が入れたかんてらの火より前《さき》に乗つて、舳にちよこなんと控へたのであつた。
 実は、此《これ》は心すべき事だつた。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐《りん》も、可恐《おそろし》き星の光も、皆、ものの尖端《せんたん》へ来て掛《かか》るのが例だと言ふから。
 やがて、其の験《しるし》がある。
 時に、さすがに、娘気《むすめぎ》の慇懃心《いんぎんごころ》か、あらためて呼ばれたので、頬被《ほおかぶ》りした手拭《てぬぐい》を取つて、俯《うつ》むいた。
「あら、きれい。」
「まあ、光るわねえ。」
 安来《やすぎ》ぶしの婦《おんな》は、驚駭《おどろき》の声を合せた。
「一寸《ちょっと》、何、其の簪《かんざし》は。」
 銀杏返《いちょうがえし》もぐしや/\に、掴《つか》んで束《たば》ねた黒髪に、琴柱形《ことじがた》して、晃々《きらきら》と猶《な》ほ月光に照映《てりか》へる。
「お見せ。」……とも言はず、女太夫《おんなたゆう》が、間近《まぢか》から手を伸《のば》すと、逆らふ状《さま》もなく、頬を横に、鬢《びん》を柔順《すなお》に、膝《ひざ》の皿に手を置いて、
「ほゝゝゝゝ。」
 と、薄馬鹿《うすばか》が馬鹿笑《ばかわらい》に笑つたのである。
 年増《としま》は思はず、手を引いて、
「えゝ、何だねえ、気味の悪い。」
 生暖《なまぬる》い、腥《なまぐさ》い、いやに冷《つめた》く、かび臭い風が、颯《さっ》と渡ると、箕《み》で溢《こぼ》すやうに月前《げつぜん》に灰汁《あく》が掛《かか》つた。
 川は三《みっ》つの瀬を一つに、どんよりと落合《おちあ》つて、八葉潟《やつばがた》の波は、なだらかながら、八《やっ》つに打つ……星の洲《す》を埋《うず》んだ銀河が流れて漂渺《ひょうびょう》たる月界に入《い》らんとする、恰《あたか》も潟《かた》へ出口の処《ところ》で、その一陣の風に、曇ると見る間《ま》に、群《むらが》りかさなる黒雲《くろくも》は、さながら裾《すそ》のなき滝の虚空《こくう》に漲《みなぎ》るかと怪《あやし》まれ、暗雲《あんうん》忽《たちま》ち陰惨として、灰に血を交《ま》ぜた雨が飛んだ。
「船頭さん/\。」
「お船頭々々。」
 と青坊主《あおぼうず》は、異変を恐れて、船頭に敬意を表した。
「苫《とま》があるで。」
「や、苫どころかい。」
「あれ、降つて来た、降つて来た。」
 声を聞いて、飛ぶ鷺《さぎ》を想つたやうに、浪《なみ》の羽《はね》が高く煽《あお》る。
「着けろ、
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