ばがた》へ浮べようとして出て来たのだが、しこみものの鮨《すし》、煮染《にしめ》、罎《びん》づめの酒で月を見るより、心太《ところてん》か安いアイスクリイムで、蚊帳《かや》で寝た方がいゝ、あとの女たちや、雑用宿《ぞうようやど》を宿場《しゅくば》へ浮《うか》れ出《だ》す他《ほか》の男どもは誰も来ない。また来ない方の人数《にんず》が多かつた。
「おい、お前《まい》さん。」
 と、太夫《たゆう》の年増《としま》は、つゞけて鷹揚《おうよう》に、娘を呼んだ。
 流《ながれ》の案山子《かかし》は、……ざぶりと、手を留《と》めた。が、少しは気取りでもする事か、棒杭《ぼうぐい》に引《ひっ》かゝつた菜葉《なっぱ》の如く、たくしあげた裾《すそ》の上へ、据腰《すえごし》に笊《ざる》を構へて、頬被《ほおかぶ》りの面《おもて》を向けた。目鼻立《めはなだち》は美しい。で、濡《ぬ》れ/\として艶《つや》ある脛《はぎ》は、蘆間《あしま》に眠る白鷺《しらさぎ》のやうに霧を分けて白く長かつた。
「感心――なか/\うまいがね、少し手が違つてるよ。……さん子さん、一寸《ちょっと》唄《うた》つてお遣《や》り。村方《むらかた》で真似をするのに、いゝ手本だ。……まうけさして貰《もら》つた礼心《れいごころ》に、ちゃんとした[#「ちゃんとした」はママ]処《ところ》を教へてあげよう。置土産《おきみやげ》さ、さん子さん、お唄ひよ。」
「可厭《いや》、獺《かわうそ》に。……気味が悪いわ、口うつしに成るぢやないの。」
 と少《わか》いのが首とともに肩を振る。
「獺に教へれば、芸の威光さ。ぢやあ、私が唄ひながら。――可《い》いかい、――安来《やすぎ》千軒《せんげん》名の出た処《ところ》……」
 もう尤《もっと》も微酔《ほろよい》機嫌で、
「さあ、遣《や》つて御覧よ。……鰌《どじょう》すくひさ。」
「ほゝゝ。」
 と娘は唯《ただ》笑つた。
 月にも、霧にも、流《ながれ》の音にも、一座の声は、果敢《はか》なき蛾《ひとりむし》のやうに、ちら/\と乱るゝのに、娘の笑声《わらいごえ》のみ、水に沈んで、月影の森に遠く響いた。
「一寸《ちょっと》、お遣りつたら。」
「ほゝゝ。」
「笑つてないでさ、可《い》いかい。――鰌すくひの骨髄と言ふ処《ところ》を教へるからよ。」
「あれ、私はな、鰌すくふのでござんせぬ。」
「おや、何をしてるんだね。」
「お月様の影を掬《すく》ひますの。」
 と空を仰いで言つた。蘆の葉の露《つゆ》は輝いたのである。
「月影を……」
「あはゝ、などと言つて、此奴《こいつ》、色男と共稼ぎに汚穢《おわい》取《と》りの稽古《けいこ》で居やがる。」
 と色の黒い小男が笑出《わらいだ》すと、角面《かくづら》の薄化粧した座長、でつぷりした男が、
「月を汲《く》んで何《なん》にするんだ。」
「はあ、暗《やみ》の夜《よ》の用心になあ。」
 此奴《こいつ》は薄馬鹿《うすばか》だと思つたさうである。後《あと》での話だが――些《ちょっ》と狐《きつね》が憑《つ》いて居るとも思つたさうで。……そのいづれにせよ、此の容色《きりょう》なら、肉の白さだけでも、客は引ける。金まうけと、座長の角面はさつそくに思慮《ふんべつ》した。且《か》つ誘拐《いざな》ふに術《て》は要《い》らない。
「分つた/\、えらいよお前《まい》は――暗夜《やみよ》の用心に月の光を掬《すく》つて置くと、笊《ざる》の目から、ざあ/\洩《も》ると、畚《びく》から、ぽた/\流れると、ついでに愛嬌《あいきょう》はこぼれると、な。……此の位世の中に理窟《りくつ》の分つた事はねえ。感心だ。――処《ところ》でな、おい、姉《あね》え。おなじ月影を汲むなら、そんなぢよろ/\水でなしに、潟《かた》へ出て、そら、ほつと霧のかゝつた、あの、其処《そこ》の山ほど大きく汲みな。一所《いっしょ》に来な、連れて行くぜ。」
 女太夫《おんなたゆう》に目くばせしながら、
「俺たちは、その月を見に潟へ出るんだ。――一所に来なよ、御馳走《ごちそう》も、うんとあらあ。」
「ほう、来るか/\、猫よりもおとなしい。いまのまに出世をするぜ、いゝ娘《こ》だ、いゝ娘《こ》だ。」
 と黒い小男が囃《はや》した。
 娘は、もう蘆《あし》を分けて出たのである。露《つゆ》にしつとりと萎《しな》へた姿も、水には濡《ぬ》れて居なかつた。
 すぐ川堤《かわづつみ》を、十歩《とあし》ばかり戻り気味に、下へ、大川《おおかわ》へ下口《おりくち》があつて、船着《ふなつき》に成つて居る。時に三艘《さんぞう》ばかり流《ながれ》に並んで、岸の猫柳に浮いて居た。
(三界万霊《さんがいまんりょう》、諸行無常《しょぎょうむじょう》。)
 鼠《ねずみ》にぼやけた白い旗が、もやひに搦《から》んで、ひよろ/\と漾《ただよ》ふのが見えた。

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