ら。
「陽気も陽気だし、それに、山に包まれているんじゃない、その市場のすぐ見通しが、大きな湖だよ、あの、有名な宍道湖《しんじこ》さ。」
「あら、山の中だって、おじさん、こちらにも、海も、湖も、大きなのがありますわ。」
湖は知らず、海に小さなのといっては断じてあるまい。何しろ、話だけでも東京が好きで、珍らしく土地自慢をしない娘も、対手《あいて》が地方だけに、ちょっと反感を持ったらしい。
いかにも、湖は晃々《きらきら》と見える。が、水が蒼穹《おおぞら》に高い処に光っている。近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺《あたり》は、麓《ふもと》の迫る裾《すそ》になり、遠山は波濤《はとう》のごとく累《かさ》っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端《は》は、巨《おお》きな猪《いのしし》の横に寝た態《さま》に似た、その猪の鼻と言おう、中空《なかぞら》に抽出《ぬきんで》た、牙《きば》の白いのは湖である。丘を隔てて、一条《ひとすじ》青いのは海である。
その水の光は、足許《あしもと》の地《つち》に影を映射《うつ》して、羽織の栗梅《くりうめ》が明《あかる》く澄み、袖の飛模様も千鳥に見える。見ると、やや立離れた――一段高く台を蹈《ふ》んで立った――糶売《せりうり》の親仁は、この小春日の真中《まんなか》に、しかも夕月を肩に掛けた銅像に似ていた。
「あの煙突が邪魔だな。」
ここを入って行きましょうと、同伴《つれ》が言う、私設の市場の入口で、外套氏は振返って、その猪《しし》の鼻の山裾《やますそ》を仰いで言った。
「あれ、温泉よ。」
「温泉?」
「いま通って来たじゃありませんか、おじさん。」
「ああ、あの紺屋の物干場と向い合った……蟋蟀《こおろぎ》がないていた……」
蟋蟀は……ここでも鳴く。
「その紺屋だって、あったのは昔ですわ。垣も何にもなくなって、いまは草場《くさっぱ》でしたわね。」
「そうだっけな――実は、あのならびに一人、おなじ小学校の組の友だちが居てね。……八田なにがし……」
「そのお飯粒《まんまつぶ》で蛙を釣って遊んだって、御執心の、蓮池の邸《やしき》の方とは違うんですか。」
鯛はまだ値が出来ない。山の端《は》の薄《すすき》に顱巻《はちまき》を突合せて、あの親仁はまた反った。
「違うんだよ。……何も更《あらた》めて名のるほどの事もないんだけれど、子供ッて妙なもので、まわりに田があるから、ああ八田だ、それにしても八ツはない。……そんなことを独り合点した事も思出しておかしいし、余り様子が変っているので、心細いようにもなって、ついうっかりして――活動写真の小屋が出来た……がらんとしている、不景気だな、とぎょっとして、何、昼間は休みなのだろう、にしておいたよ。そういえば煙突も真正面で、かえって、あんなに高く見えなかったもんだから、明《あかり》取りかと思ったっけ。……映画の明取りはちと変だね。どうかしている。」
と笑いながら、
「そうかい、温泉かい……こんな処に。」
「沸《わか》すんですよ……ただの水を。」
「ただの水はよかった、成程。」
「でも、温泉といった方が景気がいいからですわ。そしてね、おじさん、いまの、あれ、狢《むじな》の湯っていうんですよ。」
「狢の湯?……」
と同伴《つれ》の顔を見た時は、もうその市場の裡《なか》を半ば過ぎていた。まだ新しく、ほんの仮設らしい、通抜けで、ただ両側に店が並んだが、二三個処うつろに穴があいて、なぜか箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》の一つ足りないような気がする。今来た入口《はいりぐち》に、下駄屋と駄菓子屋が向合って、駄菓子屋に、ふかし芋と、茹《ゆ》でた豌豆《えんどう》を売るのも、下駄屋の前ならびに、子供の履《はき》ものの目立って紅《あか》いのも、もの侘《わび》しい。蒟蒻《こんにゃく》の桶《おけ》に、鮒《ふな》のバケツが並び、鰌《どじょう》の笊《ざる》に、天秤を立掛けたままの魚屋の裏羽目からは、あなめあなめ空地の尾花が覗《のぞ》いている……といった形。
――あとで地の理をよく思うと、ここが昔の蓮池の口もとだったのだそうである。――
「皆その御眷属《ごけんぞく》が売っているようだ。」
「何? おじさん。」
「いえね、その狢の湯の。」
「あら聞こえると悪ござんすわ。」
とたしなめる目づかいが、つい横の酒類販売店の壜《びん》に、瞳が蝶のようにちらりと映って、レッテルの桜に白い頬がほんのりする。
「決して悪く云ったのじゃない。……これで地口行燈《じぐちあんどん》が五つ六つあってごらん。――横露地の初午《はつうま》じゃないか。お祭のようだと祝ったんだよ。」
「そんな事……お祭だなんのといって、一口飲みたくなったんじゃあ、ありません? おっかさん(外套氏の
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