た》の中を出《で》され、ボーンと。――やあ、殿、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》たち、私《わし》がの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首《えりくび》、背《せなか》、手足、殿たちの身体《からだ》にボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へ奪《と》って帰ろう。名告《なの》らしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯《ひきょう》なぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……可《よ》いか、蒼蠅を忘れまい。
蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)
一座残らず、残念ながら動揺《どよ》めいた。
トふわりと起《た》ったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いた裾《すそ》が、長く畳を摺《す》ったと思うと、はらりと触ったかして、燭台《しょくだい》が、ばったり倒れた。
その時、捻向《ねじむ》いて、くなくなと首を垂れると、摺《ず》った後褄《うしろづま》を、あの真黒《まっくろ》な嘴《くちばし》で、ぐい、と啣《くわ》えて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体《いてい》な黄色い脚を、ぬい、と端折《はしょ》った、傍若無人で。
(ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々《ぽちぽち》と切れて、蒼蠅の羽音やら、奴《やつ》の声やら分らぬ。
そのまま、ふわりとして、飜然《ひらり》と上《あが》った。物干の暗黒《やみ》へ影も隠れる。
(あれ。)
と真前《まっさき》に言ったはお三輪で。
(わ、)とまた言った人がある。
さあ、膝で摺《ず》る、足で退《の》く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、
(ええ)と引返《ひっかえ》したは誰だっけ。……蠅が背後《うしろ》から縋《すが》ったらしい。
物干から、
(やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚《ざこ》のように刎《は》ねる。はて、笑止じゃの。名告《なの》れ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《の》めるわ、這《は》うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)
と云う時、稲妻が閃《ひら》めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。
皆ただ、蠅の音がただ、雷《はたたがみ》のように人々の耳に響いた。
ただ一縮みになった時、
(ほう、)
と心着いたように、物干のその声が、
(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦《おんな》を奪ろう!……も一つ他《ほか》にもある。両の袂《たもと》で持重《もちおも》ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たち、此方衆《こなたしゅ》にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇《ねんごろ》申した戯《たわむれ》じゃ。安堵《あんど》さっしゃれ、蠅は掌《たなそこ》へ、ハタと掴《つか》んだ。
さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)
ばっと屋上《やのうえ》を飛ぶ音がした。
フッと見ると、夜が白《しら》んで、浅葱《あさぎ》になった向うの蚊帳《かや》へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯《しごき》も蹴出《けだ》しも、だらだらと血だらけの婦《おんな》の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈《あんどう》が真赤《まっか》になって、蒼い細い顔が、黒髪《かみ》を被《かぶ》りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。
ト車軸を流す雨になる。
電燈が点《つ》いたが、もうその色は白かった。
婆々《ばばあ》の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――
戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠《とうろう》のように、三階で立騒いだ。
照吉は……」
と民弥は言って、愁然《しゅうぜん》とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。
「ああ、その弟ばかりじゃない、皆《みんな》の身代りになってくれたように思う。」
[#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年三月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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