名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)
と云う時、稲妻が閃《ひら》めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。
皆ただ、蠅の音がただ、雷《はたたがみ》のように人々の耳に響いた。
ただ一縮みになった時、
(ほう、)
と心着いたように、物干のその声が、
(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦《おんな》を奪ろう!……も一つ他《ほか》にもある。両の袂《たもと》で持重《もちおも》ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たち、此方衆《こなたしゅ》にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇《ねんごろ》申した戯《たわむれ》じゃ。安堵《あんど》さっしゃれ、蠅は掌《たなそこ》へ、ハタと掴《つか》んだ。
さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)
ばっと屋上《やのうえ》を飛ぶ音がした。
フッと見ると、夜が白《しら》んで、浅葱《あさぎ》になった向うの蚊帳《かや》へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯《しごき》も蹴出《けだ》しも、だらだらと血だらけの婦《おんな》の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈《あんどう》が真赤《まっか》になって、蒼い細い顔が、黒髪《かみ》を被《かぶ》りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。
ト車軸を流す雨になる。
電燈が点《つ》いたが、もうその色は白かった。
婆々《ばばあ》の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。――
戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠《とうろう》のように、三階で立騒いだ。
照吉は……」
と民弥は言って、愁然《しゅうぜん》とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。
「ああ、その弟ばかりじゃない、皆《みんな》の身代りになってくれたように思う。」
[#地から1字上げ]明治四十四(一九一一)年三月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店
1941(昭和16)年6月30日発行
※誤植の確認には底本の親本を参照しました。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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