谷で劃《くぎ》られるが、其の間《あいだ》、僅少《わずか》ばかりでも畠《はたけ》があつた。
 峠には此の二軒の他《ほか》に、別な納戸《なんど》も廏《うまや》も無い、これは昔から然《そ》うだと云ふ。
「峠、お泊りでごいせうな。」
 麓《ふもと》へ十四五|町《ちょう》隔《へだた》つた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店《ちゃみせ》に憩《いこ》つた時、裏に鬱金木綿《うこんもめん》を着けた縞《しま》の胴服《ちゃんちゃんこ》を、肩衣《かたぎぬ》のやうに着た、白髪《しらが》の爺《じい》の、霜《しも》げた耳に輪数珠《わじゅず》を掛けたのが、店前《みせさき》に畏《かしこま》つて居て聞いたので。其処《そこ》の敷《しき》ものには熊の皮を拡げて、目の処《ところ》を二つゑぐり取つたまゝの、而《そ》して木の根のくり抜《ぬき》の大火鉢《おおひばち》が置いてあつた。
 背戸口《せどぐち》は、早《は》や充満《みちみち》た山霧《やまぎり》で、岫《しゅう》の雲を吐《は》く如く、幹《みき》の半《なか》ばを其の霧で蔽《おお》はれた、三抱《みかかえ》四抱《よかかえ》の栃《とち》の樹《き》が、すく/\と並んで居た。
 名にし負《お》ふ栃木峠《とちのきとうげ》よ! 麓《ふもと》から一日がかり、上《のぼ》るに従ひ、はじめは谷に其の梢《こずえ》、やがては崖に枝|組違《くみちが》へ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時《ひとしきり》路《みち》は真暗《まっくら》な夜《よる》と成つた。……梢の風は、雨の如く下闇《したやみ》の草の径《こみち》を、清水が音を立てて蜘蛛手《くもで》に走る。
 前途《ゆくて》を遙《はるか》に、ちら/\と燃え行く炎が、煙《けぶり》ならず白い沫《しぶき》を飛ばしたのは、駕籠屋《かごや》が打振《うちふ》る昼中《ひるなか》の松明《たいまつ》であつた。
 漸《やっ》と茶店《ちゃや》に辿着《たどりつ》くと、其の駕籠は軒下《のきした》に建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布《けっと》に包まつた病人らしい漢《おとこ》を乗せたが、ゆらりと上《あが》つて、すた/\行く……
 峠越《とうげごえ》の此の山路《やまみち》や、以前も旧道《ふるみち》で、余り道中の無かつた処《ところ》を、汽車が通じてからは、殆《ほとん》ど廃駅《はいえき》に成つて、猪《いのしし》も狼《おおかみ》も又戻つたと言はれる。其の年、烈《はげ》しい
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