をした峰が揺《ゆす》ぶれた。
夜《よる》の樹立の森々《しんしん》としたのは、山颪《やまおろし》に、皆……散果《ちりは》てた柳の枝の撓《しな》ふやうに見えて、鍵屋の軒《のき》を吹くのである。
透かすと……鍵屋の其の寂《さび》しい軒下《のきした》に、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が雫《しずく》に成るのか、赤いものは艶《つや》を帯びて、濡色《ぬれいろ》に立つたのは、紅玉《こうぎょく》の如き柿の実を売るさうな。
「一つ食べよう。」
迚《とて》も寝られぬ……次手《ついで》に、宿の前だけも歩行《ある》いて見よう、――
「遠くへ行《ゆ》かつせるな、天狗様《てんぐさま》が居ますぜえ。」
あり合はせた草履《ぞうり》を穿《は》いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺《ろべり》には、先刻《さっき》の按摩《あんま》の大入道《おおにゅうどう》が、やがて自在の中途《ちゅうと》を頭で、神妙らしく正整《しゃん》と坐つて。……胡坐《あぐら》掻《か》いて駕籠舁《かごかき》も二人居た。
沢は此方《こなた》の側伝《かわづた》ひ、鍵屋の店を謎《なぞ》を見る心持《ここち》で差覗《さしのぞ》きながら、一度|素通《すどお》りに、霧の中を、翌日《あす》行く方へ歩行《ある》いて見た。
少し行くと橋があつた。
驚いたのは、其の土橋《どばし》が、危《あぶな》つかしく壊《こわ》れ壊《ごわ》れに成つて居た事では無い。
渡掛《わたりか》けた橋の下は、深さ千仭《せんじん》の渓河《たにがわ》で、畳《たた》まり畳まり、犇々《ひしひし》と蔽累《おおいかさ》なつた濃い霧を、深く貫《つらぬ》いて、……峰裏《みねうら》の樹立を射《い》る月の光が、真蒼《まっさお》に、一条《ひとすじ》霧に映つて、底から逆《さかさ》に銀鱗《ぎんりん》の竜の、一畝《ひとうね》り畝《うね》つて閃《ひら》めき上《のぼ》るが如く見えた其の凄《すご》さであつた。
流《ながれ》の音は、ぐわうと云ふ。
沢は目《ま》のあたり、深山《しんざん》の秘密を感じて、其処《そこ》から後《あと》へ引返《ひっかえ》した。
帰りは、幹《みき》を並べた栃《とち》の木の、星を指す偉大なる円柱《まるばしら》に似たのを廻り廻つて、山際《やまぎわ》に添つて、反対の側《かわ》を鍵屋の前に戻つたのである。
「此の柿を一つ……」
「まあ、お掛けなさいましな。」
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