いられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上《うま》の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵《すうしょ》の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日《いつ》、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓《しこりょうかく》として、ただ山水と明月とあるのみ。※[#「風にょう+繆のつくり」、第4水準2−92−40]戻《りょうれい》たる天風《てんぷう》はおもむろに馭者の毛布《ケット》を飄《ひるがえ》せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄《ながしめ》に見遣《みや》りぬ。
「いや、それはともかくも、話説《はなし》をせんけりゃ解《わか》らん」
 馭者は懐裡《ふところ》を捜《さぐ》りて、油紙の蒲簀莨入《かますたばこい》れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発《ひら》かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃《はた》くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下《ごんか》に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅《つま》ってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃《いっきつ》を試みぬ。はたしてその言《ことば》のごとく、煙管は不快《こころわろ》き脂《やに》の音のみして、煙《けむり》の通うこと縷《いとすじ》よりわずかなり。
「なるほどこれは壅《つま》ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要《い》るのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷《こより》を撚《ひね》りて、煙管を通し、溝泥《どぶどろ》のごとき脂に面《おもて》を皺《しわ》めて、
「こら! 御覧な、無性《ぶしょう》だねえ。おまえさん寡夫《やもめ》かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶《あいさつ》だ。でも、情婦《いろ》の一人や半分《はんぶん》はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝《いっかつ》せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「おまえさんの壮年《とし》で、独身《ひとりみ》で、情婦がないなんて、ほんとに男子《おとこ》の恥辱《はじ》だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
 馭者は傲然《ごうぜん》として、
「そんなものは要《い》らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除《そうじ》ができたから、一服|戴《いただ》こう」
 白糸はまず二服を吃《きっ》して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅《つま》ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
 大口|開《あ》いて馭者は心快《こころよ》げに笑えり。白糸は再び煙管を仮《か》りて、のどかに烟《けぶり》を吹きつつ、
「今の顛末《はなし》というのを聞かしてくださいな」
 馭者は頷《うなず》きて、立てりし態《すがた》を変えて、斜めに欄干に倚《よ》り、
「あのとき、あんな乱暴を行《や》って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜《くや》しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
 美人は眉《まゆ》を昂《あ》げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟《りくつ》なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩《けんか》を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便《おんびん》がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
 白糸は身に沁《し》む夜風にわれとわが身を抱《いだ》きて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
 渠は慰むる語《ことば》なきがごとき面色《おももち》なりき。馭者は冷笑《あざわら》いて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
 美人は愁然として腕を拱《こまぬ》きぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨《ぶらつ》いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁《べっとう》の口でもあるだろうと思って、探《さが》しに出て来た。今日《きょう》も朝から一日|奔走《かけある》いたので、すっかり憊《くたび》れてしまって、晩方|一風呂《ひとっぷろ》入《はい》ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼《すずみ》に出掛けて、ここで月を観《み》ていたうちに、いい心地《こころもち》になって睡《ね》こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
「生得《うまれ》からの馬丁でもないさ」
 美人は黙して頷《うなず》きぬ。
「愚痴《ぐち》じゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづく視《なが》めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細《しさい》があって、幼少《ちいさい》ころに家《うち》は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺《おやじ》に亡《な》くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止《やめ》さ。それから高岡へ還《かえ》ってみると、その日から稼《かせ》ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体《からだ》だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父《おやじ》は馬の家じゃなかったけれど、大の所好《すき》で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児《こども》の時分|稽古《けいこ》をして、少しは所得《おぼえ》があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計《くらし》を立てているという、まことに愧《は》ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡《りょうけん》でもない、目的も希望《のぞみ》もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々《ぼうぼう》たる天を仰ぎて、しばらく悵然《ちょうぜん》たりき。その面上《おもて》にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝《た》えざる声音《こわね》にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望《のぞみ》というのは、私たちには聞いても解《わか》りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸は軽《かろ》く小|膝《ひざ》を拊《う》ちて、
「黄金《かね》の世の中ですか」
「地獄の沙汰《さた》さえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出《い》でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このとき跳《おど》るばかりに動《ゆらめ》きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄《おのの》きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性《ましょう》のものを睨《ね》めたりけり。さきに半円の酒銭《さかて》を投じて、他の一銭よりも吝《お》しまざりしこの美人の胆《たん》は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※[#「目+登」、第3水準1−88−91]目《とうもく》せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出《ほとばし》らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸《こり》か、変化《へんげ》か、魔性か。おそらくは※[#「月+因」、35−8]脂《えんし》の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人の意《こころ》をその面《おもて》に読まんとしたりしが、能《あた》わずしてついに呻《うめ》き出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有《けう》なる面色《おももち》にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾《つば》するがごとく独語《ひとりご》ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番《ひとつ》私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮《かんが》えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁《ゆかり》もないものに……」
「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報《かえ》さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩《おんがえし》ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父《おじ》さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉《つかま》えて、やたらにお金を貢《みつ》いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生《ごしょう》だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要《い》るものじゃない。私はおまえさんの希望《のぞみ》というのが※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩《おんがえし》さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物《ひと》になれると想《おも》うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 その音《おん》柔媚《じゅうび》なれども言々風霜を挟《さしはさ》みて、凛《りん》たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠は襟《きん》を正して、うやうやしく白糸の前に頭《かしら》を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面に溢《あふ》るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語《ことば》を遣《つか》われると、私は気が逼《つま》るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々《りり》しくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮《こま》ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地《ここち》しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面《おもて》に露《あら》わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩《おんがえし》には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望《のぞみ》はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》いさえすれば……
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