馬より扶《たす》け下ろして、茶店の座敷に舁《か》き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主《あるじ》の嫗《おうな》に嘱《たの》みて、その身は息をも継《つ》かず再び羸馬《るいば》に策《むちう》ちて、もと来し路《みち》を急ぎけり。
ほどなく美人は醒《さ》めて、こは石動の棒端《ぼうばな》なるを覚《さと》りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊《たず》ねて、金さんなるを知りぬ。その為人《ひととなり》を問えば、方正謹厳、その行ないを質《ただ》せば学問好き。
二
金沢なる浅野川の磧《かわら》は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯《つら》ねて、猿芝居《さるしばい》、娘|軽業《かるわざ》、山雀《やまがら》の芸当、剣の刃渡り、活《い》き人形、名所の覗《のぞ》き機関《からくり》、電気手品、盲人相撲《めくらずもう》、評判の大蛇《だいじゃ》、天狗《てんぐ》の骸骨《がいこつ》、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑《いとま》あらず。
なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸《みずげい》なり。太夫《たゆう》滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称《あいかな》いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当《えいとう》たり。
時まさに午後一時、撃柝《げきたく》一声、囃子《はやし》は鳴りを鎮《しず》むるとき、口上は渠《かれ》がいわゆる不弁舌なる弁を揮《ふる》いて前口上を陳《の》べ了《お》われば、たちまち起こる緩絃《かんげん》朗笛の節《せつ》を履《ふ》みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結《やっこもとゆ》い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚《こ》びを粧《よそお》い、朱鷺《とき》色|縮緬《ちりめん》の単衣《ひとえ》に、銀糸の浪《なみ》の刺繍《ぬい》ある水色|絽《ろ》の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚《わめ》きぬ。
「いよう、待ってました大明神《だいみょうじん》様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢|暴《あら》し!」
「ここな命取り!」
喝采《やんや》の声のうちに渠は徐《しず》かに面《おもて》を擡《もた》げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙《あ》げて一咳《いちがい》し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初|腕調《こてしら》べとして御覧に入れまするは、露に蝶《ちょう》の狂いを象《かたど》りまして、(花野の曙《あけぼの》)。ありゃ来た、よいよいよいさて」
さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手《ゆんで》に把《と》りて、右手《めて》には黄白《こうはく》二面の扇子を開き、やと声|発《か》けて交互《いれちがい》に投げ上ぐれば、露を争う蝶|一双《ひとつ》、縦横上下に逐《お》いつ、逐われつ、雫《しずく》も滴《こぼ》さず翼も息《やす》めず、太夫の手にも住《とど》まらで、空に文《あや》織る練磨《れんま》の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声《だみごえ》高く喚《よば》わりつつ、外面《おもて》の幕を引き揚《あ》げたるとき、演芸中の太夫はふと外《と》の方《かた》に眼を遣《や》りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
口上は狼狽《ろうばい》して走り寄りぬ。見物はその為損《しそん》じをどっと囃《はや》しぬ。太夫は受け住《と》めたる扇を手にしたるまま、その瞳《ひとみ》をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
口上はいよいよ狼狽して、為《せ》ん方を知らざりき。見物は呆《あき》れ果てて息を斂《おさ》め、満場|斉《ひと》しく頭《こうべ》を回《めぐ》らして太夫の挙動《ふるまい》を打ち瞶《まも》れり。
白糸は群れいる客を推し排《わ》け、掻《か》き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
あわただしく木戸口に走り出で、項《うなじ》を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼《わかもの》あり。
何事や起こりたると、見物は白糸の踵《あと》より、どろどろと乱れ出ずる喧擾《ひしめき》に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面《おもて》を見るを得たり。渠は色白く瀟洒《いなせ》なりき。
「おや、違ってた!」
かく独語《ひとりご》ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。
三
夜《よ》はすでに十一時に近づきぬ。磧《かわら》は凄涼《せいりょう》として一箇《ひとり》の人影《じんえい》を見ず、天高く、露気《ろき》ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
熱鬧《ねっとう》を極《きわ》めたりし露店はことごとく形を斂《おさ》めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩《も》るる燈火《ともしび》は、かすかに宵のほどの名残《なごり》を留《とど》めつ。河《かわ》は長く流れて、向山《むこうやま》の松風静かに度《わた》る処《ところ》、天神橋の欄干に靠《もた》れて、うとうとと交睫《まどろ》む漢子《おのこ》あり。
渠《かれ》は山に倚《よ》り、水に臨み、清風を担《にな》い、明月を戴《いただ》き、了然たる一身、蕭然《しょうぜん》たる四境、自然の清福を占領して、いと心地《ここち》よげに見えたりき。
折から磧の小屋より顕《あら》われたる婀娜者《あだもの》あり。紺絞りの首抜きの浴衣《ゆかた》を着て、赤|毛布《ゲット》を引き絡《まと》い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄《げた》の爪頭《つまさき》に戞々《かつかつ》と礫《こいし》を蹴遣《けや》りつつ、流れに沿いて逍遥《さまよ》いたりしが、瑠璃《るり》色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
川風はさっと渠の鬢《びん》を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
しかと毛布《ケット》を絡《まと》いて、渠はあたりを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色《けしき》なもんだ」
渠は再び徐々として歩を移せり。
この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上|旅籠《はたご》を取らずして、小屋を家とせるもの寡《すく》なからず。白糸も然《さ》なり。
やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄《あずまげた》の音は天地の寂黙《せきもく》を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛《おかし》さに、なおしいて響かせつつ、橋の央《なかば》近く来たれるとき、やにわに左手《ゆんで》を抗《あ》げてその高髷《たかまげ》を攫《つか》み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
暴々《あらあら》しく引き解《ほど》きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
かくて白糸は水を聴《き》き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾《ちんきん》として露下月前に快眠せる漢子《おのこ》は、数歩のうちにありて※[#「鼻+句」、第4水準2−94−72]《いびき》を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
囃子方《はやしかた》に新という者あり。宵より出《い》でていまだ小屋に還《かえ》らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《のぞ》きたり。
新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌《そうぼう》はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝《まさ》ること千の新なるべき異常の面魂《つらだましい》なりき。
その眉《まゆ》は長くこまやかに、睡《ねむ》れる眸子《まなじり》も凛如《りんじょ》として、正しく結びたる脣《くちびる》は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽《しゅんそう》なるを語れり。漆のごとき髪はやや生《お》いて、広き額《ひたい》に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦《そよ》げり。
つくづく視《なが》めたりし白糸はたちまち色を作《な》して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者《ぎょしゃ》なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
渠は跫音《あしおと》を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
恍惚《こうこつ》として瞳《ひとみ》を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡《まと》いし毛布《ケット》を脱ぎて被《き》せ懸《か》けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡《うまいね》せり。
白糸は欄干に腰を憩《やす》めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝《ひざ》のあたりをはたと拊《う》てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚《めさ》まして、叭《あくび》まじりに、
「ああ、寝た。もう何時《なんどき》か知らん」
思い寄らざりしわがかたわらに媚《なま》めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
馭者は愕然《がくぜん》として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布《ケット》ありて、深夜の寒を護《まも》れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
白糸は微笑《えみ》を含みて、呆《あき》れたる馭者の面《おもて》を視《み》つつ、
「夜露に打たれると体《からだ》の毒ですよ」
馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌《ごきげん》よう」
いよいよ呆《あき》れたる馭者は少しく身を退《すさ》りて、仮初《かりそめ》ながら、狐狸変化《こりへんげ》のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺《なが》めたる渠の眼色《めざし》は、顰《ひそ》める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑《かたほえ》みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首《こうべ》を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
馭者はいたく驚けり。月下の美人|生面《せいめん》にしてわが名を識《し》る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸《こり》の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所《とこ》で!」
袖《そで》を掩《おお》いて白糸は嫣然《えんぜん》一笑せり。
馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首《こうべ》を正して言えり。
「抱いた記憶《おぼえ》はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走《かけっくら》をして、石動《いするぎ》手前からおまえさんに抱かれて、馬上《うま》の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手《よこで》を拍《う》ちて、馭者は大声《たいせい》を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
馭者は脣辺《しんぺん》に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶《おも》い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えて
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