る遑《ひま》もなく、
「偸児《どろぼう》!」と男の声は号《さけ》びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟《とどろ》けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手《めて》に閃《ひらめ》きて、縁に立てる男の胸をば、柄《つか》も透《とお》れと貫きたり。
戸を犇《ひしめ》かして、男は打ち僵《たお》れぬ。朱《あけ》に染みたるわが手を見つつ、重傷《いたで》に唸《うめ》く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦《すく》みて、わなわなと顫《ふる》いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞《ふるまい》をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪《たお》れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後《うしろ》に、
「あなた、どうなすった?」
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