じゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
 甲者は頬杖《ほおづえ》※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]《つ》きたりし面《おもて》を外《はず》して、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
 思いも寄らぬ弁者の好謔《こうぎゃく》は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子《かね》を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児《どろぼう》のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡《おおおか》政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情《わけ》がありそうです」
 乙者は首を捻《ひね》りつつ腕を拱《こまぬ》けり。例の「なるほど」は、談《はなし》のますます佳境に入るを楽しめる気色《けしき》にて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致《いた》しました」
 傍聴者は声を斂《おさ》めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
 弁者はなおも語《ことば》を継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間《ひま》があったのだ。この間《あいだ》に出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮《ふる》って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉《てぐすね》を引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
 甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作《な》せり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那《だんな》、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣《なす》ろうという姦計《たくみ》なんでございますか」
 弁者は渠の没分暁《ぼつぶんぎょう》を笑いて、
「何も姦計《たくみ》だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
 甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨《げい》して、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手《あいて》は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管《かま》やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極《き》め付けてやりまさあ」
 渠の鼻息はすこぶる暴《あら》らかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
 と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝《や》むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起《た》てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃《いんぎん》に一揖《いちゆう》して、
「おかげでおもしろうございました」
「どうも旦那《だんな》ありがとう存じました」
 弁者は得々として、
「おまえさんがたも間《ひま》があったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
 乗客は忙々《いそがわしく》下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶《たす》け下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車《くるま》でございます」
 渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇《たたず》めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳《ひとみ》を凝らせり。
 たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所|失《と》れたる茶羅紗《ちゃらしゃ》のチョッキに、水晶の小印《こいん》を垂下《ぶらさ》げたるニッケル鍍《めっき》の※[#「金+樔のつくり」、第4水準2−91−32]《くさり》を繋《か》けて、柱に靠《もた》れたる役員の前に頭《かしら》を下げぬ。
「その後は御機嫌《ごきげん》よろしゅう。あいかわらずお達者で……」
 役員は狼狽《ろうばい》して身を正し、奪うがごとくその味噌漉《みそこ》し帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖《に》ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手《じょうず》なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
 老いたる役員はわが子の出世を看《み》るがごとく懽《よろこ》べり
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