殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
渠は話児《はなし》を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末《てんまつ》を聞かんとせり。乙者《おつ》も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本《ぜっぽん》はようやく軟《やわら》ぎぬ。
「賊はじきにその晩|捕《や》られた」
「こわいものだ!」と甲者《こう》は身を反《そ》らして頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
「あの、それ、南京《ナンキン》出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
乙者《おつ》は直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣《や》りかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎《とが》めるとこそこそ遁《に》げ出したから、こいつ胡散《うさん》だと引っ捉《とら》えて見ると、着ている浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》がない」
談ここに到《いた》りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟《うめ》きぬ。乗り合いは弁者の顔を※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《うかが》いて、その後段を渇望せり。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
弁者はこの訛言《かたごと》をおかしがりて、
「天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさずかい」
甲者は聞くより手を抗《あ》げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗り合いの過半《おおく》はこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁《あるじ》は桐田《きりた》という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業《しわざ》だか、いや、それは、実に残酷に害《や》られたというね。亭主は鳩尾《みぞおち》のところを突き洞《とお》される、女房は頭部《あたま》に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳《えぐ》られて、僵《たお》れていたその手に、男の片袖を掴《つか》んでいたのだ」
車中声なく、人は固唾《かたず》を嚥《の》みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸《しがい》のかたわらに出刃庖丁《でばぼうちょう》が捨ててあった。柄《え》の所に片仮名《かたかな》のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用《つか》っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違《ちがい》ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
旅商人は膝《ひざ》を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
弁者はたちまち手を抗《あ》げてこれを抑《おさ》えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪《と》りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門《かど》は通過《とおり》もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉《まゆ》を動かして、弁者を凝視《みつ》めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨《まきたばこ》を取り出だして、脣《くちびる》に湿しつつ、
「話はこれからだ」
左側《さそく》の席の前端《まえはし》に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭《たが》いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台《ふしせんだい》の袴《はかま》を穿《は》きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装《いでたち》にはあらざるなり。されどもその相貌《そうぼう》とその髭とは、多く得《う》べからざる紳士の風采《ふうさい》を備えたり。
弁者は仔細《しさい》らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷《うなず》き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶《うつくしい》ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪《と》るときに、おおかた断《ちぎ》られたのであろうが、自分は知らずに遁《に》げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅《おど》すために持っていたのを、慌《あわ》てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟《りくつ》には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ち
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