たたね》せし渠の懐《ふところ》には、欣弥が半年の学資を蔵《おさ》めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静《しずか》なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴《おもむ》かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍《おど》り出ずる人数《にんず》あり。
 みなこれ屈竟《くっきょう》の大男《おおおのこ》、いずれも手拭《てぬぐ》いに面《おもて》を覆《つつ》みたるが五人ばかり、手に手に研《と》ぎ澄ましたる出刃庖丁《でばぼうちょう》を提《ひさ》げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
 心剛《こころたしか》なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇《たたず》めり。狼藉者《ろうぜきもの》の一個《ひとり》は濁声《だみごえ》を潜めて、
「おう、姉《ねえ》さん、懐中《ふところ》のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
 かく言いつつ他の一個《ひとり》はその庖丁を白糸の前に閃《ひらめ》かせば、四|挺《ちょう》の出刃もいっせいに晃《きらめ》きて、女の眼《め》を脅かせり。
 白糸はすでにその身は釜中《ふちゅう》の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁《のが》るること難《かた》し。
 渠はその平生《へいぜい》においてかつ百金を吝《お》しまざるなり。されども今夜|懐《ふところ》にせる百金は、尋常一様の千万金に直《あたい》するものにして、渠が半身の精血とも謂《い》っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲《う》るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放|豁達《かったつ》の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
 白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣《くちびる》は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。
「これは与《や》られないよ」
「与《く》れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣《や》っつけろ、遣っつけろ!」
 その声を聞くとひとしく、白糸は背後《うしろ》より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫《ひし》ぐるばかりの翼緊《はがいじ》めに遭《あ》えり。たちまち暴《あら》くれたる四隻《よつ》の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈《かきさが》せり。
「あれえ!」と叫びて援《すく》いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個《ひとり》の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は※[#「應」の「心」に代えて「言」、53−13]《こた》えぬ。
 白糸は猿轡《さるぐつわ》を吃《はま》されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶《もだ》えて、跋《は》ね覆《か》えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛《ゆる》みぬ。虚《すか》さず白糸は起き復《かえ》るところを、はたと※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]仆《けたお》されたり。賊はその隙《ひま》に逃げ失《う》せて行くえを知らず。
 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還《かえ》らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚《も》ゆるがごとく、万感の心《むね》を衝《つ》くに任せて、無念|已《や》む方《かた》なき松の下蔭《したかげ》に立ち尽くして、夜の更《ふ》くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念《あきら》めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
 渠はひしとわが身を抱《いだ》きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々《ようよう》たる霞が池は、霜の置きたるように微黯《ほのぐら》き月影を宿せり。
 白糸の眼色《めざし》はその精神の全力を鍾《あつ》めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面《おも》を屹《き》と視《み》たり。
「ええ、もうなんともかとも謂《い》えないいやな心地《こころもち》だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛《ばんこく》の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉《よろよろ》と汀《みぎわ》に寄れば、足下《あしもと》に物ありて晃《きらめ》きぬ。思わず渠の目はこれに住《とど》まりぬ。出刃庖丁なり! 
 これ悪漢が持てりし兇器《きょうき》なるが、渠らは白糸を手籠《てご》めにせしとき、かれこれ悶着《もんちゃく》の間に取り遺《おと》せしを、忘れて捨て行きたるなり。
 白糸はたちまち慄然《
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