れをもってせば欣弥|母子《おやこ》が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰《ひそ》みたりし愁眉《しゅうび》を開けり。
されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
渠の希望《のぞみ》はすでに手の達《とど》くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支《ささ》うるを得ば足れり。無頓着《むとんじゃく》なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為《な》さざりき。その約に負《そむ》かざらんことを虞《おそ》るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専《もっぱら》なりき。
かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《お》わりたりしは、一時に垂《なんな》んとするころなりき。白昼《ひるま》を欺くばかりなりし公園内の万燈《まんどう》は全く消えて、雨催《あまもよい》の天《そら》に月はあれども、四面|※[#「さんずい+翁」、第4水準2−79−5]※[#「さんずい+孛」、49−15]《おうぼつ》として煙《けぶり》の布《し》くがごとく、淡墨《うすずみ》を流せる森のかなたに、たちまち跫音《あしおと》の響きて、がやがやと罵《ののし》る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹《あと》に残りて語合《かたら》う女あり。
「ちょいと、お隣の長松《ちょうまつ》さんや、明日《あした》はどこへ行きなさる?」
年増《としま》の抱《いだ》ける猿《さる》の頭を撫《な》でて、かく訊《たず》ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首《ろくろくび》の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公《ちょんこ》のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
渠は抱《いだ》きし猿を放ち遣《や》りぬ。
折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被《ほおかぶ》りせる男の顔は赤く顕《あら》われぬ。黒き影法師も両三箇《ふたつみつ》そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視《すかしみ》て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩《やす》んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後《うしろ》に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住《ど》まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉《ねえ》さん」
「参りましょうかね」
両箇《ふたり》の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇《だいじゃ》を籠《かご》に入れて荷《にな》う者と、馬に跨《またが》りて行く曲馬芝居の座頭《ざがしら》とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹《らくえき》として森蔭《もりかげ》に列を成せるその状《さま》は、げに百鬼夜行一幅の活図《かっと》なり。
ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃《しんすい》として月色ますます昏《くら》く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、※[#「谷+含」、第4水準2−88−88]谺《こだま》に響き、水に鳴りて、魂消《たまぎ》る一声《ひとこえ》、
「あれえ!」
五
水は沈濁して油のごとき霞《かすみ》が池《いけ》の汀《みぎわ》に、生死も分かず仆《たお》れたる婦人あり。四|肢《し》を弛《ゆる》めて地《つち》に領伏《ひれふ》し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕《まくら》を返して、がっくりと頭《かしら》を俛《た》れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起《あ》がりて、※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]《よろめ》く体《たい》をかたわらなる露根松《ねあがりまつ》に辛《から》くも支《ささ》えたり。
その浴衣《ゆかた》は所々引き裂け、帯は半ば解《ほど》けて脛《はぎ》を露《あら》わし、高島田は面影を留《とど》めぬまでに打ち頽《くず》れたり。こはこれ、盗難に遇《あ》えりし滝の白糸が姿なり。
渠はこの夜の演芸を※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《お》わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫《まどろ》みたりき。一座の連中は早くも荷物を取|纏《まと》めて、いざ引き払わんと、太夫《たゆう》の夢を喚《よ》びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現《うつつ》に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常《へいぜい》を識《し》りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
程《ほど》経て白糸は目覚《めざ》ましぬ。この空小屋《あきごや》のうちに仮寝《う
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