ろうという物はそればかりではない。死骸《しがい》のかたわらに出刃庖丁《でばぼうちょう》が捨ててあった。柄《え》の所に片仮名《かたかな》のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用《つか》っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違《ちがい》ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
旅商人は膝《ひざ》を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
弁者はたちまち手を抗《あ》げてこれを抑《おさ》えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪《と》りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門《かど》は通過《とおり》もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉《まゆ》を動かして、弁者を凝視《みつ》めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨《まきたばこ》を取り出だして、脣《くちびる》に湿しつつ、
「話はこれからだ」
左側《さそく》の席の前端《まえはし》に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭《たが》いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台《ふしせんだい》の袴《はかま》を穿《は》きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装《いでたち》にはあらざるなり。されどもその相貌《そうぼう》とその髭とは、多く得《う》べからざる紳士の風采《ふうさい》を備えたり。
弁者は仔細《しさい》らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷《うなず》き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶《うつくしい》ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪《と》るときに、おおかた断《ちぎ》られたのであろうが、自分は知らずに遁《に》げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅《おど》すために持っていたのを、慌《あわ》てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟《りくつ》には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ち
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