「それはいかん! 自分の所望《のぞみ》を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩《おんがえし》になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
 かく言いつつ美人は微笑《ほほえ》みぬ。
「いや、理屈《りくつ》を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩《おんがえし》といえば、乞食《こじき》も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞《もら》った報恩《おんがえし》になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
 とみには返す語《ことば》もなくて、白糸は頭《かしら》を低《た》れたりしが、やがて馭者の面《おもて》を見るがごとく見ざるがごとく※[#「(虍/助のへん)+見」、第4水準2−88−41]《うかが》いつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容《かたち》を正せり。
「ちっと羞《は》ずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾《き》いてくださるか。いずれおまえさんの身に適《かな》ったことじゃあるけれども」
「一応|聴《き》いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
 白糸は鬢《びん》の乱《おく》れを掻《か》き上げて、いくぶんの赧羞《はずか》しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶《まも》りつつ、固唾《かたず》を嚥《の》みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠《くちご》もりたりしが、直ちに心を定めたる気色《けしき》にて、
「処女《きむすめ》のように羞《は》ずかしがることもない、いい婆《ばばあ》のくせにさ。私の所望《のぞみ》というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君《おかみさん》にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯《しょうがい》親類のよう
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