、ここで月を観《み》ていたうちに、いい心地《こころもち》になって睡《ね》こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
「生得《うまれ》からの馬丁でもないさ」
 美人は黙して頷《うなず》きぬ。
「愚痴《ぐち》じゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづく視《なが》めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細《しさい》があって、幼少《ちいさい》ころに家《うち》は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺《おやじ》に亡《な》くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止《やめ》さ。それから高岡へ還《かえ》ってみると、その日から稼《かせ》ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体《からだ》だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父《おやじ》は馬の家じゃなかったけれど、大の所好《すき》で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児《こども》の時分|稽古《けいこ》をして、少しは所得《おぼえ》があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計《くらし》を立てているという、まことに愧《は》ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡《りょうけん》でもない、目的も希望《のぞみ》もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々《ぼうぼう》たる天を仰ぎて、しばらく悵然《ちょうぜん》たりき。その面上《おもて》にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝《た》えざる声音《こわね》にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望《のぞみ》というのは、私たちには聞いても解《わか》りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修行さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいい
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