合った、そこへ、艶麗《あでやか》な女が一人腰を掛けたのである。
待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜《あだ》めく。
内端《うちわ》に、品よく、高尚と云おう。
前挿《まえざし》、中挿《なかざし》、鼈甲《べっこう》の照りの美しい、華奢《きゃしゃ》な姿に重そうなその櫛笄《くしこうがい》に対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。
四
一目見ても知れる、濃い紫の紋着《もんつき》で、白襟、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正《きちん》と堅く挿した風采《とりなり》は、桃の小道を駕籠《かご》で遣《や》りたい。嫁に行《ゆ》こうとする女であった。……
指の細く白いのに、紅《あか》いと、緑なのと、指環《ゆびわ》二つ嵌《は》めた手を下に、三指ついた状《さま》に、裾模様《すそもよう》の松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄《つま》を深く正しく居ても、溢《こぼ》るる裳《もすそ》の紅《くれない》を、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重《はぶたえ》足袋。幽《かすか》に震えるような身を緊《し》めた爪先《つまさき》の塗駒下駄《ぬりこまげた》。
まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖《おそれ》と、涙《なんだ》と、笑《えみ》とは、ただその深く差俯向《さしうつむ》いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢《びん》に包まれて、簪《かんざし》の穂に顕《あらわ》るる。……窈窕《ようちょう》たるかな風采、花嫁を祝するにはこの言《ことば》が可《い》い。
しかり、窈窕たるものであった。
中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜《いとし》らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微《かすか》な元結《もとゆい》のゆらめきである。
耳許《みみもと》も清らかに、玉を伸べた頸許《えりもと》の綺麗さ。うらすく紅《くれない》の且つ媚《なまめ》かしさ。
袖の香も目前《めさき》に漾《ただよ》う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊《し》め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜《びん》の口を抜くのを差控えたほどであった。
汽車に連るる、野も、畑も、畑《はた》の薄《すすき》も、薄に交《まじわ》る紅《くれない》の木の葉も、紫|籠《こ》めた野末の霧も、霧を刷《は》いた山々も、皆|嫁《ゆ》く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃《もゆ》るがごとく見え初《そ》めた妙義の錦葉《もみじ》と、蒼空《あおぞら》の雲のちらちらと白いのも、ために、紅《べに》、白粉《おしろい》の粧《よそおい》を助けるがごとくであった。
一つ、次の最初の停車場《ステイション》へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙《ひな》めいた男女《なんにょ》の顔が押累《おしかさな》って室を覗《のぞ》いた。
累《かさな》りあふれて、ひょこひょこと瓜《うり》の転がる体《てい》に、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込《のぞきこ》む。
私の窓にも一つ来た。
と見ると、板戸に凭《もた》れていた羽織袴が、
「やあ!」
と耳の許《とこ》へ、山高帽を仰向《あおむ》けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包《ふろしきづつみ》を大《おおき》な懐中に入れて、茶紬《ちゃつむぎ》を着た親仁《おやじ》も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」
とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺《しこん》――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃|流行《はや》る半コオトを幅広に着た、横肥《よこぶと》りのした五十|恰好《かっこう》。骨組の逞《たく》ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目|眇《めっかち》で、その眇の方をト上へ向けて渋《しぶ》のついた薄毛の円髷《まるまげ》を斜向《はすっかい》に、頤《あご》を引曲《ひんま》げるようにして、嫁御が俯向《うつむ》けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻《あぶ》の飛ぶように、じろじろと飛廻しに※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》していたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。
五
少し揺《ゆす》るようにした。
指に平打《ひらうち》の黄金《きん》の太く逞《たく》ましいのを嵌《は》めていた。
肖《に》も着かぬが、乳母ではない、継《まま》しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤《おとがい》で幽《かすか》に頷《うなず》いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓《しな》って、緞子《どんす》の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違《たが》わず、品の可《い》い、ちと寂しいが美しい、瞼《まぶた》に颯《さっ》と色を染めた、薄《すすき》の綿に撫子《なでしこ》が咲く。
ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉《も》んだ褄《つま》の崩れに、捌《さば》いた紅《くれない》。紅糸《べにいと》で白い爪先《つまさき》を、きしと劃《しき》ったように、そこに駒下駄が留まったのである。
南無三宝《なむさんぽう》! 私は恥を言おう。露に濡羽《ぬれば》の烏が、月の桂《かつら》を啣《くわ》えたような、鼈甲《べっこう》の照栄《てりは》える、目前《めのさき》の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件《くだん》の大革鞄を忘れていた。
何と、その革鞄の口に、紋着《もんつき》の女の袖が挟《はさま》っていたではないか。
仕出来《しでか》した、さればこそはじめた。
私はあえて、この老怪の歯が引啣《ひきくわ》えていたと言おう。……
いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
重量《おもみ》が、自然と伝《つたわ》ったろう、靡《なび》いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
「御免なさいまし。」
と呼吸《いき》の下で云うと、襟の白さが、颯《さっ》と紫を蔽《おお》うように、はなじろんで顔をうつむけた。
赤ら顔は見免《みのが》さない。
「お前、どうしたのかねえ。」
かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪《かみ》を掻《かき》しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ひんむし》る。
「革鞄に挟った。」
「どうしてな。」
と二三人立掛ける。
窓へ、や、えんこらさ、と攀上《よじのぼ》った若いものがある。
駅夫の長い腕が引払《ひッぱら》った。
笛は、胡桃《くるみ》を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
汽車は猶予《ためら》わず出た。
一人|発奮《はずみ》をくって、のめりかかったので、雪頽《なだれ》を打ったが、それも、赤ら顔の手も交《まじ》って、三四人大革鞄に取《とり》かかった。
「これは貴方のですか。」
で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行《ゆ》くものか。
「これは堅い、堅い。」
「巌丈な金具じゃええ。」
それ言わぬ事ではない。
「こりゃ開かぬ、鍵《かぎ》が締まってるんじゃい。」
と一まず手を引いたのは、茶紬《ちゃつむぎ》の親仁《おやじ》で。
成程、と解《よ》めた風で、皆白けて控えた。更《あらた》めて、新しく立ちかかったものもあった。
室内は動揺《どよ》む。嬰児《こども》は泣く。汽車は轟《とどろ》く。街樹《なみき》は流るる。
「誰の麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》じゃい。」
と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
彼は仰向《あおむ》けに目を瞑《つぶ》った。瞼《まぶた》を掛けて、朱を灌《そそ》ぐ、――二合|壜《びん》は、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱《こまぬ》く。
女は頤《おとがい》深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向《さしうつむ》く。
六
「この次で下車《おり》るのじゃに。」
となぜか、わけも知らない娘を躾《たしな》めるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
「何てまあ、馬鹿々々しい。」
と当着《あてつ》けるように言った。
が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連《つれ》と目配せをしながら、赤ら顔の継母《ままおや》は更《あらた》めて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈《かが》めた。
突如《いきなり》噛着《かみつ》き兼ねない剣幕だったのが、飜《ひるがえ》ってこの慇懃《いんぎん》な態度に出たのは、人は須《すべか》らく渠等《かれら》に対して洋服を着るべきである。
赤ら顔は悪く切口上で、
「旦那、どちらの麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》か存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体《からだ》でございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」
声が眉間《みけん》を射たように、旅客は苦しげに眉を顰《ひそ》めながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮《かいちぢ》めた腕組を衝《つ》と解いて、一度|投出《ほうりだ》すごとくばたりと落した。その手で、挫《ひし》ぐばかり確《しか》と膝頭《ひざがしら》を掴《つか》んで、呼吸《いき》が切れそうな咳《せき》を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取《ききとり》を願いとうございます。私《わたくし》は、ここに隣席においでになる、窈窕《ようちょう》たる淑女。」
彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、袂《たもと》をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
と※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたが私《わたくし》です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込《つっこ》んで、革鞄の口をかしりと啣《くわ》えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊《くび》って、引緊《ひきし》めたと思う手応《てごたえ》がありました。
真白《まっしろ》な薄《すすき》の穂か、窓へ散込んだ錦葉《もみじ》の一葉《ひとは》、散際《ちりぎわ》のまだ血も呼吸《いき》も通うのを、引挟《ひっぱさ》んだのかと思ったのは事実であります。
それが紫に緋《ひ》を襲《かさ》ねた、かくのごとく盛粧《せいしょう》された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
諸君、私《わたくし》は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未《いま》だかつて一度も私《わたくし》ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私《わたくし》がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
いや
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