、御手段が願いたい。
 お聴《きき》を煩らわしました。――別に申す事はありません。」
 彼は、従容《しょうよう》として席に復した。が、あまたたび額の汗を拭《ぬぐ》った。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然《りつぜん》とした。
 室内は寂然《ひっそり》した。彼の言は、明晰《めいせき》に、口|吃《きっ》しつつも流暢《りゅうちょう》沈着であった。この独白に対して、汽車の轟《とどろき》は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
 停車場《ステイション》に着くと、湧返《わきかえ》ったその混雑さ。
 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆《いっき》を思え。
 時に、継母《ままおや》の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上《もっとも》常識的なものであった。
「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」
「いいえ、貴方。」
 判然《はっきり》した優しい含声《ふくみごえ》で、屹《きっ》と留《とど》めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着《そでつけ》の糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺《ゆら》めく黒髪、島田は、黄金の高彫《たかぼり》した、輝く斧《おの》のごとくに見えた。
 紫の襲《かさね》の片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚《はだ》を裂いたか、女の片身に、颯《さっ》と流るる襦袢《じゅばん》の緋鹿子《ひがのこ》。
 プラットフォームで、真黒《まっくろ》に、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目瞼《まぶた》の紅梅。黄金《きん》を溶《とか》す炎のごとき妙義山の錦葉《もみじ》に対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯《さっ》と飜《ひるが》えって、雪なす小手を翳《かざ》しながら、黒煙《くろけむり》の下になり行く汽車を遥《はるか》に見送った。
 百合若《ゆりわか》の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
 つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
 そこで知己《ちかづき》になった。
[#地から1字上げ]大正三(一九一四)年二月



底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
青空文
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