傷心した、かよわい令嬢の、背《せな》を抱く御介抱が願いたい。」
一室は悉《ことごと》く目を注いだ、が、淑女は崩折《くずお》れもせず、柔《やわらか》な褄《つま》はずれの、彩《いろ》ある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
ひとりかの男のみ、堅く突立《つった》って、頬を傾《かし》げて、女を見返ることさえ得《え》しない。
赤ら顔も足も動かさなかった。
「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
外ではありません。それの革鞄の鍵《かぎ》を棄てた事です。私《わたくし》は、この、この窓から遥《はるか》に巽《たつみ》の天《そら》に雪を銀線のごとく刺繍《ぬいとり》した、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私《わたくし》は目を瞑《つぶ》った、ほとんだ気が狂《ちが》ったのだとお察しを願いたい。
為業《しわざ》は狂人《きちがい》です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私《わたくし》です。
が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見《みいだ》せますまい、決して帰らない、戻りますまい。
小刀《こがたな》をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
鍵は投棄てました、決心をしたのです。私《わたくし》は皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
ただし、この革鞄の中には、私《わたくし》一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌《いはい》。実際、生命と斉《ひと》しいものを残らず納《い》れてあるのです。
が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
私《わたくし》は――」
とここで名告《なの》った。
八
「年は三十七です。私《わたくし》は逓信《ていしん》省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」
と俯向《うつむ》いて探って、鉄縁の時計を見た。
「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
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