《さっ》と吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。
啾々《しゅうしゅう》と近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠の袂《たもと》を敷いて、階《きざはし》の下に両膝《もろひざ》をついた。
目ばかり光って、碧額《へきがく》の金字《こんじ》を仰いだと思うと、拍手《かしわで》のかわりに、――片手は利かない――痩《や》せた胸を三度打った。
「願いまっしゅ。……お晩でしゅ。」
と、きゃきゃと透《とお》る、しかし、あわれな声して、地に頭《こうべ》を摺《す》りつけた。
「願いまっしゅ、お願い。お願い――」
正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕《あら》われると、ひらりと舞下《まいさが》り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点《とも》れたように灯影が映る時、八十年《やそとし》にも近かろう、皺《しわ》びた翁《おきな》の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々《なえなえ》とした禰宜《ねぎ》いでたちで、蚊脛《かずね》を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋《ひうちぶくろ》を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉烏帽子《もみえぼし》を頂いた、耳、ぼんの窪《くぼ》のはずれに、燈心はその十《と》筋|七《なな》筋の抜毛かと思う白髪《しらが》を覗《のぞ》かせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬宝珠《ぎぼしゅ》を背に控えたが。
屈《かが》むが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。――
「和郎《わろ》はの。」
「三里離れた処でしゅ。――国境《くにざかい》の、水溜りのものでございまっしゅ。」
「ほ、ほ、印旛沼《いんばぬま》、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」
「赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。」
「河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を上《のぼ》らしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。」
「神職様《かんぬしさま》、おおせでっしゅ。――自動車に轢《ひ》かれたほど、身体《からだ》に怪我《けが》はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶烏《とびからす》に負けんでしゅ。お鳥居より式台へ掛《かか》らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。」
「ほ、ほう、しんびょう。」
ほくほくと頷《うなず》いた。
「きものも、灰塚の森の中で、古案山子《ふるかがし》を剥《は》いだでしゅ。」
「しんびょう、しんびょう……奇特なや、忰《せがれ》。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。」
「それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。」
「この老ぼれには何も叶《かな》わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。」
「薬でないでしゅ。――敵打《かたきうち》がしたいのでっしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」
「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩《けんか》の仕返しがしたいのでっしゅ。」
「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」
「この左の手を折られたでしゅ。」
とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、雫《しずく》の垂るのが、蓴菜《じゅんさい》に似た血のかたまりの、いまも流るるようである。
尖《とが》った嘴《くちばし》は、疣立《いぼだ》って、なお蒼《あお》い。
「いたましげなや――何としてなあ。対手《あいて》はどこの何ものじゃの。」
「畜生!人間。」
「静《しずか》に――」
ごぼりと咳《せ》いて、
「御前《おんまえ》じゃ。」
しゅッと、河童は身を縮めた。
「日の今日、午頃《ひるごろ》、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌《かまどいわ》へ。――神職様《かんぬしさま》、小鮒《こぶな》、鰌《どじょう》に腹がくちい、貝も小蟹《こがに》も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端《いそばた》を、八|葉《よう》の蓮華《れんげ》に気取り、背後《うしろ》の屏風巌《びょうぶいわ》を、舟後光《ふなごこう》に真似て、円座して……翁様《おきなさま》、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹《でこぼこ》凸凹凸凹と、累《かさな》って敷く礁《いわ》を削り廻しに、漁師が、天然の生簀《いけす》、生船《いけぶね》がまえにして、魚《さかな》を貯えて置くでしゅが、鯛《たい》も鰈《かれい》も、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬《すく》い残りの小《ちゃっ》こい鰯子《いわしこ》が、チ、チ、チ、(笑う。)……青い鰭《ひれ》の行列で、巌竃《いわかまど》の簀《す》の中を、きらきらきらきら、日南《ひなた》ぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手唾《てつばき》して、……漁師が網を繕《つぐの》うでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞馴《ききな》れぬ、すずしい澄んだ女子《おなご》の声が、男に交って、崖上の岨道《そばみち》から、巌角《いわかど》を、踏んず、縋《すが》りつ、桂井《かつらい》とかいてあるでしゅ、印半纏《しるしばんてん》。」
「おお、そか、この町の旅籠《はたご》じゃよ。」
「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷《まるまげ》の年増と、その亭主らしい、長面《ながづら》の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪《べっぴん》の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清《すずし》い、甘い、情のある、その声が堪《たま》らんでしゅ。」
「はて、異な声の。」
「おららが真似るようではないでしゅ。」
「ほ、ほ、そか、そか。」
と、余念なさそうに頷《うなず》いた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白髪《しらが》も浮世離れして、翁《おきな》さびた風情である。
「翁様、娘は中肉にむっちりと、膚《はだ》つきが得《え》う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄《つま》をくるりと。」
「危《あぶな》やの。おぬしの前でや。」
「その脛《はぎ》の白さ、常夏《とこなつ》の花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裙《すそ》をからげたでしゅ。巌根《いわね》づたいに、鰒《あわび》、鰒、栄螺《さざえ》、栄螺。……小鰯《こいわし》の色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……お紫《むら》と云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡い膏《あぶら》も、白粉《おしろい》も、娘の匂いそのままで、膚《はだ》ざわりのただ粗《あら》い、岩に脱いだ白足袋の裡《なか》に潜って、熟《じっ》と覗いていたでしゅが。一波上るわ、足許《あしもと》へ。あれと裳《もすそ》を、脛がよれる、裳が揚る、紅《あか》い帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。」
「ちと聞苦しゅう覚えるぞ。」
「口に出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様――処ででしゅ、この吸盤《すいつき》用意の水掻《みずかき》で、お尻を密《そっ》と撫《な》でようものと……」
「ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。」
「違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で怨恨《うらみ》はないでしゅ。……蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、」
「その口でか、その口じゃの。」
「ヒ、ヒ、ヒ、空ざまに、波の上の女郎花《おみなえし》、桔梗《ききょう》の帯を見ますと、や、背負守《しょいまもり》の扉を透いて、道中、道すがら参詣《さんけい》した、中山の法華経寺か、かねて御守護の雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》か、真紅《まっか》な柘榴《ざくろ》が輝いて燃えて、鬼子母神《きしもじん》の御影《みえい》が見えたでしゅで、蛸遁《たこに》げで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った。
沖がやがて曇ったでしゅ。あら、気味の悪い、浪がかかったかしら。……別嬪《べっぴん》の娘の畜生め、などとぬかすでしゅ。……白足袋をつまんで。――
磯浜へ上って来て、巌《いわ》の根松の日蔭に集《あつま》り、ビイル、煎餅《せんべい》の飲食《のみくい》するのは、羨《うらやま》しくも何ともないでしゅ。娘の白い頤《あご》の少しばかり動くのを、甘味《うま》そうに、屏風巌《びょうぶいわ》に附着《くッつ》いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反《そ》るでしゅ。見つけられまい、と背後《うしろ》をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨路《そばみち》へ飛ぼうとする処を、
――まて、まて、まて――
と娘の声でしゅ。見惚《みと》れて顱《さら》が顕《あら》われたか、罷了《しまい》と、慌てて足許《あしもと》の穴へ隠れたでしゅわ。
間の悪さは、馬蛤貝《まてがい》のちょうど隠家《かくれが》。――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、熟《じっ》と覗《のぞ》く。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗《うららか》さは、月宮殿の池ほどござり、睫《まつげ》が柳の小波《さざなみ》に、岸を縫って、靡《なび》くでしゅが。――ただ一雫《ひとしずく》の露となって、逆《さかさ》に落ちて吸わりょうと、蕩然《とろり》とすると、痛い、疼《いた》い、痛い、疼いッ。肩のつけもとを棒切《ぼうぎれ》で、砂越しに突挫《つきくじ》いた。」
「その怪我じゃ。」
「神職様。――塩で釣出せぬ馬蛤《まて》のかわりに、太い洋杖《ステッキ》でかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、這奴《しゃつ》、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて不埒《ふらち》を働く。」
「ほ、ほ、そか、そか。――かわいや忰《せがれ》、忰が怨《うらみ》は番頭じゃ。」
「違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎飛《はねと》んで、田打蟹《たうちがに》が、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の沫《あわ》を被《かぶ》って転がって遁《に》げる時、口惜《くや》しさに、奴の穿《は》いた、奢《おご》った長靴、丹精に磨いた自慢の向脛《むこうずね》へ、この唾《つば》をかッと吐掛けたれば、この一呪詛《ひとのろい》によって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。――怨《うらみ》の的は、神職様――娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。」
「一通りは聞いた、ほ、そか、そか。……無理も道理も、老《おい》の一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。」
「御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の仇《かたき》を視《み》ながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、」
とたちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものか、知らず、駄々子《だだっこ》がものねだりする状《さま》であった。
「忰、忰……まだ早い……泣くな。」
と翁は、白く笑った。
「大慈大悲は仏菩薩《ぶつぼさつ》にこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、任侠《にんきょう》の御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に縋《すが》ったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ――えいとな。……
や、や、や、横扉から、はや、お縁へ。……これは、また、お軽々しい。」
廻廊の縁の角あたり、雲低き柳の帳《と
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