蕎麦屋《そばや》でも、鮨屋《すしや》でも気に向いたら一口、こんな懐中合《ふところあい》も近来めったにない事だし、ぶらぶら歩いて来ましたところが、――ここの前さ、お前さん、」
 と低いが壁天井に、目を上げつつ、
「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟《じっ》と天頂《てっぺん》の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女の姿が見えました。部屋着に、伊達巻といった風で、いい、おいらんだ。……串戯《じょうだん》じゃない。今時そんな間違いがあるものか。それとも、おさらいの看板が見えるから、衣裳《いしょう》をつけた踊子が涼んでいるのかも分らない、入って見ようと。」
「ああ、それで……」
「でござんさあね。さあ、上っても上っても。……私も可厭《いや》になってしまいましてね。とんとんと裏階子《うらばしご》を駆下りるほど、要害に馴《な》れていませんから、うろうろ気味で下りて来ると、はじめて、あなた、たった一人。」
「だれか、人が。」
「それが、あなた、こっちが極《きま》りの悪いほど、雪のように白い、後姿でもって、さっきのおいらんを、丸剥《まるはぎ》にしたようなのが、廊下にぼんやりと、少し遠見に……おや! おさらいのあとで、お湯に入る……ッてこれが、あまりないことさ。おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。」
「どこのです。」
「ここの。」
「ええ。」
「それとも隣室《となり》だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた衣《き》ものぐらいの場所にありましてね。」
 信也氏は思わず内端《うちわ》に袖を払った。
「見た時は、もっとも、気もぼっとしましたから。今思うと、――ぞっこん、これが、目にしみついていますから、私が背負《しょ》っている……雪おんな……」
(や、浜町の夜更《よふけ》の雨に――
 ……雪おんな……
 唄いさして、ふと消えた。……)
「?……雪おんな。」
「ここに背負っておりますわ。それに実《ほん》に、見事な絵でござんすわ。」
 と、肩に斜《ななめ》なその紫包を、胸でといた端もきれ
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